春の遅い長野県でも桜が満開となり、このところの冷たい雨で散り始めています。寒さは花が長持ちしていいのですが、花見ができるような穏やかな天候の日はあったのかなかったのか。
各地の桜の便りをきくと、私には気になって仕方のないことがあります。気にはなるのですが、この時期を外れてしまうと忘れて解明もせず、また花の季節を迎えることを繰り返してきました。それは、「しだれ桜」のことです。
柳田国男の『信州随筆』の「しだれ桜の問題」は、こんな文章で始まっています。
昭和五年の四月のたしか二十六日、東筑摩の和田村を通ってみると、広い耕地のところどころに、古木の枝垂桜があって美しく咲き乱れている。近年野を開いたろうと思う畠の地堺などで、、庭園の跡とも見えず、妙な処に桜があるというと、同行の矢ケ崎君は曰く、以前はもっと古いのがまだ方々にあった。そうして墓地であったかと思う処が多いということである。私にはこれはまったく始めての経験であった。
『信州随筆』は昭和十一年発行とあるから、それ以前に柳田が執筆したものであるが(昭和五年執筆)、その頃の感覚として、柳田には桜は庭園にあるものとの認識があったことがわかります。ところが、はるか後に信州に生まれた私の感覚としても、墓地やお堂などに桜はあって普通です。この普通と思うのは信州人の風景を見た感覚で、他県の人には「何これ」といった景観のようなのです。樹木は長く生きますので、はるか昔に植えた人の樹木に寄せる思いが今も残っているといえます。
柳田はこんなことも書いています。「事によると霊場ことに死者を祭る場処に、ぜひともしだれた木を栽えなければならぬ理由が、前代にはあったことを意味するかも知れぬ。」死者を埋葬したところに、枝垂桜を植える。桜の下には死体が埋まっているという、坂口安吾の言は創作ではなく、伝承の奥に潜んでいる感覚が言わしめたものなのかもしれません。植えたのは桜ばかりでなく、枝垂れ柳もあったと思います。地名として、塔婆柳とか三本柳というものがあり、聞いてみると弔い上げにさしておいた柳が根付いたとか、墓地の柳だとかいうものでした。柳の下に幽霊が出る図柄も、こうした潜在意識を刺激してのものでしょう。さらに、樹木葬で植える木の種類も気になるところです。
最後に柳田は問題を提起しています。「それはどこからその若木を得、何人がそれを郊野に栽え始めたろうかということである。」柳田が予想するのは、枝垂れ桜の苗木を背負って売り歩いた人々がいるのではないかということです。
柳田はしだれ桜の次に、「信濃桜の話」というものを書いています。ここでは、京都の貴族が書いた随筆の中に、信濃桜を庭に植えたという記述が見られるというのです。「信濃桜」が枝垂れ桜ならば、柳田の予想の傍証になるわけです。ここから先は、まだ誰も書いておらず、はっきりしたことはわかりません。ことによると知ろうとしてもわからないのかもしれません。
私は夢想します。遥かな昔、初冬から春先にかけて、「信濃桜」の苗を背負って冬の口減らしのために、暖かな西国を念仏を唱えながら流浪する信濃人を。
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