民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

沖縄へ3 戦跡を巡る

2014-03-14 14:17:26 | Weblog

 3月4日はタクシでのガイドをお願いして、1日かけて中部から南部へ、米軍の侵攻、それはとりもなおさず日本軍の敗走ルートであり日米の激戦地を見ていきました。ネットで探して依頼したのは、幸運タクシーの上原幸典さんでした。検索してみるといくつもヒットしてくるので、実名をあげてしまいます。たまたま頼んだ平和ガイド上原さんは、素晴らしい方でした。見学ルートは、米軍上陸地を臨む座喜味城跡→激戦地嘉数高地・普天間飛行場→南風原文化センター・米軍基地車窓から見学→糸数アブチラガマ見学→沖縄平和祈念資料館・平和の礎→ひめゆり資料館見学 というもので、強行軍でした。見学終了は6時近くだったでしょうか。

   

左は座喜味城跡の石垣です。首里の中山城の出城であったようです。首里城は偽物だが、これこそ人の手の加わらない本物の歴史遺産だと上原さんは強調されました。また、小高い城跡から見える読谷村について、面白い話をうかがいました。読谷村は大部分の土地を米軍に接収されてしまった基地の村ですが、したたかな手段で役場を立て周辺を返還させたというのです。以下に、読谷村役場 小橋川清弘さんの「軍用地の跡地利用と平和村づくり」という論文の1部を引用します。

 沖縄戦では、読谷村は米軍の上陸地点であり、その後たくさんの基地がつくられ、村民生活の障害となった。こうしたことから村民は基地を取り戻し、そこに生活の場・生産の場・憩いの場をつくる跡地利用を進めてきた。村民のねばり強いたたかいがついに実り、米軍基地(読谷補助飛行場)の中に、運動広場、多目的広場、野球場、大型駐車場をつくることに成功し、さらに1997年には待望の役場庁舎が、1999年には文化センターが同じ基地内に建った。
 なぜ、基地の中に体育施設や庁舎などが建ったのか、それは、日米地位協定第2条4(a)「合衆国軍隊が施設及び区域を一時的に使用していないときは、日本国政府は、臨時にそのような施設及び区域をみずから使用し、又は日本国民に使用させることができる。ただし、この使用が、合衆国軍隊による当該施設及び区域の正規の使用目的にとって有害でないことが合同委員会を通じて両政府間に合意された場合に限る。」という規定による。そして2006年7月31日、庁舎や文化センターが建った部分を含め読谷飛行場の一部約140ヘクタールが返還された。読谷村民の長年の返還運動が、日米両政府を動かしたのである。

共同利用しましょうとかいって役場を作り、演習だからと役場は閉鎖できないといって変換させたのだといいます。大したもんです。以後、同じ手をつかった自治体がいくつかあるそうです。現在も、時々米軍から用地が返還されるが、いずれも崖の部分だとかで返還されても利用価値のない土地なのだそうです。真ん中は、米軍基地の入り口ゲート。どういうわけか、米軍は鳥居を作りたがるそうです。そして以前は鳥居の上に、富士山の絵が掲げてあったといいます。鳥居の中は聖域ですから、日本人を遠ざけるには鳥居が最適だと米軍は考えたのでしょうか。米軍基地で多くを占めるのは海兵隊だそうです。敵の陣地へ真っ先に攻め込み橋頭堡を築くのが海兵隊です。彼らが教えられるのは、いかに躊躇なく敵を殺せるかです。殺すか殺されるかの訓練を受けている兵士が、街の中に休暇で出てくるわけですから、一般人とは道徳的に相いれなくて当然です。表ざたになっているレイプ事件はほんの一部で、泣き寝入りあるいは隠蔽されている数は多数あるということでした。右は嘉手納基地です。通常の法では建設できない住宅密集地にある基地です。

 

左はいくつかあるガマの入り口です。公開されているガマは少ないそうです。糸数アブチラガマはNPOによって管理されているので、中に入ることができました。ガマの中は広く長く、川も流れていました。もちろん真っ暗です。こうしたガマの中に避難した住民が集団自決したり、日本軍によって追い出されたり、スパイ容疑で虐殺されたりしました。日本軍によって殺されたことがわかっている遺族も、そうはいわなくて米軍の攻撃で死んだと役場には申請したそうです。そうしないと援護法の適用にならなかったからです。証言している人の数は少なく、それも年を取って自分が死んだら真実が伝わらないと考えた人が、意を決してのものだそうです。また、集団自決といっても村人が互いに殺しあったわけですから、戦後生き残った人によって、誰が誰を殺したという事が明らかになっても普段は口をつぐんでいる人が選挙の際に明らかにし、訴訟にまでなった例があったそうです。地上戦を住民がまきこまれて行ったということは、本当に恐ろしいことです。何のための軍隊なのか、軍は民を守ったためしがないと思います。右は平和の礎。沖縄戦でなくなった全ての人命が刻まれた石が、数多く並んでいます。亡くなった全ての人命といいましたが、強制連行されてきて亡くなった韓国朝鮮の皆さんは、同等に名前を刻まれることを拒んでいるそうです。それは当然と思います。


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