民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

2人の母を送ってー2

2020-04-10 16:02:56 | その他

今回は自分の母の葬儀について書かなくてななりませんが、その前に自分と母との間柄について述べなければなりません。それは一言でいって、良いものではありませんでした。思春期を迎えるまでは何も感じなかったのですが、高校生になってから母親の自分に対する支配的な態度に、どうしても我慢がならなくなりました。大学で家を出たのも、このまま家に留まっては自律できないと、真剣に考えたからです。普通親への反発は、思春期の一時期を通り過ぎれば収まるものですが、私はずっとそれに苦しみました。母は特異といってよい性格の持ち主で、子どもの頃から自分をいじめる人を見つけ出し、常に自分を被害者の位置において自分を正当化してきました。それはたぶん、相手の気持ちに共感することができないという障害のなせる業ではなかったかと、今にして思います。

母は多発性脳梗塞を60歳くらいの時に患い、以後は夫である私の父に頼り切った生活でした。動けるようになっても自分からは何もしようとせず、自分の身の回りのこと以外はすべて父にやってもらっていました。父が亡くなり、母は一人暮らしとなりました。私が同居すべきとは思ってもみましたが、話しているとどうしても私の精神の安定が保てないのです。それで、訪問看護を頼んだりヘルパーさんを頼んだりして一人暮らしを続け、1週間に一度は顔を見に行って買い物をしたりしていました。そのうち、朝になると胃が痛くてデーサービスに行けないとか、すぐ医者に連れていけということが多くなりました。医者に行っても悪いところはなく、生理食塩水の点滴をして治るようなことを繰り返し。これではどうしようもないことから、いくつかの施設に申し込んで、待っていると、幸いにもデイサービスに通っていた近くに施設に入ることができました。母を施設に入れるについては忍びないものがありましたが、もし私が同居して介護したら全面的によりかかってくる母に我慢がならず、煮詰まって何をしてしまうかわかりませんでした。最初はしぶった母も、知っている人がいる施設であったのですぐなれ、そこでの生活を楽しむようになりました。よくしていただいた職員の皆さんに感謝です。

施設に8年程いるうちに、だんだん体力が弱ってきました。そして、杖を使っての歩行から、歩行器になり、車椅子になり、食べるものも普通食から刻み食、最後はペースト状にしてもらっての食事でしたが、最後まで食べる意欲はありました。そして、3月のある日、食堂で朝ご飯を食べ終わった後、意識消失・呼吸停止となりました。自然死とはこういうものでしょう。コロナの関係でなくなる前の1週間ほどは面会できなかったのですが、その前の1年くらいは平均1日おきくらいに面会していたので、死に目に会えなかったという悔いは残りませんでした。次回は葬儀について書きます。


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