フィールドと書斎との往還によって民俗学は構築される」といったことを、何度か書いてきました。そんな思いをまた実感したので書きます。
大岡へ行って、山の中には山の中独自の文化があるのではないかと思いましたが、そんな思いで読みかけの、宮本常一『山に生きる人びと』を読み進めると、こんな記述に心が動きました。
野では早くから電灯が煌々としてついているのに山間ではランプのままであるということは山間に住む人の心を暗くした。それよりも何よりも、山にいては子供たちを学校へ十分に通わせることができない。小中学校の永欠児童のうち、親の職業を見ると林業とある者がもっとも多かった。その大半は杣と炭焼にしたがっているのであろう。そういうところには分教場もない。かりに学校へ通わせるにしても、二里三里の細道を歩かせなければならない。山中にはそういうところが多い。
宮本常一がこれを書いたころとは状況が大分変ってきているが、限界集落といわれ若い人が流失したムラの事情で、子どもの教育環境は大きなものだろう。集落の子どもの減少が更に子どもの減少に拍車をかけている。新小学校ができて数年の四賀地区では、保育所の子どもが数人の世代がでているという。小中はまだしも、高校へ通うのに莫大なバス代を払って数本のバスにするか、保護者の送迎が必要とあらば、親ならばもっと選択肢のある便利な土地へと考えて当然です。そこに暮らしもしない部外者のノスタルジーで、山の村の暮らしを守ってくださいなどとは言えません。リアリストで生活の改善とそこに住む人々の幸せを願っていた宮本常一は、ムラがなくなることも已む無しと思っていたことでしょう。
また、私の修験者妄想を裏付ける、つぎのような記述もあります。
おそらく、中世にあっては山伏が山間交通のためにつくした功績は大きいものがあったのではないかと思われる。東北地方の山中にのこる数多くの山伏神楽のごときも、山伏がこれをもたらしたというだけでなく、山伏もまたそこに住み、村人にとけあっていたからであり、さらにまたこの仲間の往来が頻繁で、単に近傍への荷持ちをしていたばかりでなく、羽黒・熊野への旅もくりかえしていたようである。秋田県檜木内には、今も法螺祭文がのこっているが、これは村の何某という者が熊野からならって持ってきたものであるという。何某が山伏であったという伝承はないが、術を使って稲架の棒杭のさきをピョンピョンととび歩いたという話があるから、山伏の仲間だったのであろう。村にあっては農業にしたがっていたが、そのかたわら大覚野峠をこえて、その北側の阿仁の谷との間の荷持ちをしていた。
ここに私は山の村を結び文化を持ち運んだ宗教者の姿をみつけ、今や忘れ去られた地域名である嶺間(れいかん)の文化的結びつきを夢想するのです。
といったことで、野で見て書物で見て、インスピレーションが深まるのです。
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