キリル・コンドラシン(Kirill Kondrashin/1914~1981)という指揮者は1967年に手兵モスクワ・フィルと初来日しマーラーの交響曲第9番ニ長調を日本初演をした人であった。当時の日本はまだマーラーやブルックナーのブームに至っておらず「日本初演」にもかかわらずあまり評判にならなかった記憶がある。この時の演奏は幸いNHKの録音テープからAltusレーベルの「コンドラシン/モスクワ・フィル来日ステレオ・ライヴ・シリーズ」としてCD化され当時の名演を聴くことが可能である。その翌年彼は西側の名門オーケストラ、アムステルダム・コンセルトへボウ管弦楽団(現、ロイヤル・アムステルダム・コンセルトヘボウ管)に初めて招かれ得意のショスタコーヴィチ交響曲第6番ロ短調作品54を振った。この時の模様はオランダ放送協会によってステレオ録音された。この演奏は「白熱の伝説の名演」として語りぐさになっている。そして彼はこの演奏を機にこのオーケストラと波長が合いそれ以後たびたび客演し数々の名演をのこした。
1978年12月、彼はついにオランダ亡命を決意する。翌79年にはコンセルトヘボウ管弦楽団の首席客演指揮者のポストを得る。しかし、西側諸国での巾広い指揮者活動の本格的始動にかかった矢先1981年彼は心臓発作で倒れ67歳で生涯を終えた。まだこれからと言う時で世界に衝撃を与えた。
彼の死後、フィリップスはオランダ放送に保管された貴重なライヴ録音テープを基に「コンドラシン・コンセルトヘボウ・ライヴ・シリーズ」としてレコード化した。写真のLPはそのシリーズの1枚、先に述べた初顔合わせ1968年1月21日のライヴ、ショスタコーヴィチ交響曲第6番と亡くなる1年前の1980年3月6日に演奏された同、交響曲第9番をカップリングしたものである。もちろん彼はソヴィエト時代に世界初のショスタコーヴィチ交響曲全集録音を完成した指揮者ではあるがこの西側のコンセルトヘボウとのライヴ盤もまた一味違う魅力を感じさせる。
1978年12月、彼はついにオランダ亡命を決意する。翌79年にはコンセルトヘボウ管弦楽団の首席客演指揮者のポストを得る。しかし、西側諸国での巾広い指揮者活動の本格的始動にかかった矢先1981年彼は心臓発作で倒れ67歳で生涯を終えた。まだこれからと言う時で世界に衝撃を与えた。
彼の死後、フィリップスはオランダ放送に保管された貴重なライヴ録音テープを基に「コンドラシン・コンセルトヘボウ・ライヴ・シリーズ」としてレコード化した。写真のLPはそのシリーズの1枚、先に述べた初顔合わせ1968年1月21日のライヴ、ショスタコーヴィチ交響曲第6番と亡くなる1年前の1980年3月6日に演奏された同、交響曲第9番をカップリングしたものである。もちろん彼はソヴィエト時代に世界初のショスタコーヴィチ交響曲全集録音を完成した指揮者ではあるがこの西側のコンセルトヘボウとのライヴ盤もまた一味違う魅力を感じさせる。