◆朝日新聞(2006年3月25日)によると、「ゆとり教育」の旗手寺脇研さん(文化庁・文化部長)について、文部科学省は新設される大臣官房広報調整官(課長級)とするという降格人事を決めたそうだ。同氏は今春の人事で早期退職するよう同省事務方から勧められたという。しかし小阪文科相から引き留められたようだ。公立学校の教育行政の振り子のような動き?それとも混乱?
◆朝日放送(2006年3月24日)によると、「大阪府が初めて民間から採用した府立高校の校長が、職員をどう喝したなどとして、職員から人権救済を申し立てられ、混乱の責任を取って辞表を提出し」たという。「トップダウン方式で強引に改革を進めようとした民間出身の校長と、教員の間の軋轢があ」ったようだということらしい。民間vs.自治体??
◆朝日新聞(同期日)によると、財務省は24日、国の借金の残高が05年末の初めて800兆円を突破し、813兆円になったと発表した。前年に比べ62兆円増えた。また同紙の別のページでは公立学校の「就学援助」が縮小し、収入格差が教育・学力の格差を拡大すると指摘している。市場の原理vs.財政規制?
◆一方で海陽中等教育学校は「エリート養成校」としてトヨタ、JR東海など中部財界の肝いりで私立学校を開学したが、文部科学省も協力したのではないかと指摘。政治家中には「飛び抜けて出来る人を社会全体で大切にした方が、我々平均的な人間は得するのではないか」というエリート教育推進派もいるとも。上流vs.下流?
◆同紙では、さらにこんな記事が載っている。「民間法人借金839兆円 企業活動活発に手形取引が増加」と国の借金とほぼ同額であるが、トーンが違う。「04年は11.1兆円のマイナスで返済が上回っていたが、05年は2.3兆円のプラスに転じた」と。要は、借りてもそれ以上利益が上がればよい。しかし国の借金はそうはいかない。そうしようとすると税金があがるばかりである。ここでも上流vs.下流?
◆民間vs.国・自治体が上流と下流の二極化という図式になるのだろうか。それは全く違う。民間の中で上流と下流という図式が織り込まれているから、勝組が上流としてサバイバルしているだけだ。結果、民間はプラスに転じているように見える。つまり犠牲の上に成り立っている。
◆今国はそれを公立学校の中に導入しようとしている。形式化あるいは形骸化されているかもしれないが、この防壁が「平均化」であり「平等化」であった。しかしこれは崩れようとしている。中部エリアの一部の有力公立学校や全国の公立中高一貫校、都立の進学重点校などはサバイバルし、そうでないところはたいへんな憂き目に遭う。もうそうなっているかもしれない。
◆民間vs.国、私立vs.公立という対立構造のものの見方=パラダイムは、もはや幻想で現実に合っていないということか。ではどういうパラダイムの組み立てが必要なのか。その兆しは実は既にいたるところで存在している。しかし、日本の新聞だけ読んでいては、その希望の光は見えない。あるときは国が勝利しあるときは民間が勝利するという振り子の揺れの中で、右往左往するしかない。心配を解消することができないまま生きるしかない。学校教育でグローバルな視点を身につけることが必要なのは、この心配の向こうにある本来的な不安を自覚し、それを受け入れる覚悟を学ぶためだが、そういう教育を公立がやらねばなるまい。
※参考→「ホンマノオト:教育と経済§6 2006年3月24日」
◆朝日放送(2006年3月24日)によると、「大阪府が初めて民間から採用した府立高校の校長が、職員をどう喝したなどとして、職員から人権救済を申し立てられ、混乱の責任を取って辞表を提出し」たという。「トップダウン方式で強引に改革を進めようとした民間出身の校長と、教員の間の軋轢があ」ったようだということらしい。民間vs.自治体??
◆朝日新聞(同期日)によると、財務省は24日、国の借金の残高が05年末の初めて800兆円を突破し、813兆円になったと発表した。前年に比べ62兆円増えた。また同紙の別のページでは公立学校の「就学援助」が縮小し、収入格差が教育・学力の格差を拡大すると指摘している。市場の原理vs.財政規制?
◆一方で海陽中等教育学校は「エリート養成校」としてトヨタ、JR東海など中部財界の肝いりで私立学校を開学したが、文部科学省も協力したのではないかと指摘。政治家中には「飛び抜けて出来る人を社会全体で大切にした方が、我々平均的な人間は得するのではないか」というエリート教育推進派もいるとも。上流vs.下流?
◆同紙では、さらにこんな記事が載っている。「民間法人借金839兆円 企業活動活発に手形取引が増加」と国の借金とほぼ同額であるが、トーンが違う。「04年は11.1兆円のマイナスで返済が上回っていたが、05年は2.3兆円のプラスに転じた」と。要は、借りてもそれ以上利益が上がればよい。しかし国の借金はそうはいかない。そうしようとすると税金があがるばかりである。ここでも上流vs.下流?
◆民間vs.国・自治体が上流と下流の二極化という図式になるのだろうか。それは全く違う。民間の中で上流と下流という図式が織り込まれているから、勝組が上流としてサバイバルしているだけだ。結果、民間はプラスに転じているように見える。つまり犠牲の上に成り立っている。
◆今国はそれを公立学校の中に導入しようとしている。形式化あるいは形骸化されているかもしれないが、この防壁が「平均化」であり「平等化」であった。しかしこれは崩れようとしている。中部エリアの一部の有力公立学校や全国の公立中高一貫校、都立の進学重点校などはサバイバルし、そうでないところはたいへんな憂き目に遭う。もうそうなっているかもしれない。
◆民間vs.国、私立vs.公立という対立構造のものの見方=パラダイムは、もはや幻想で現実に合っていないということか。ではどういうパラダイムの組み立てが必要なのか。その兆しは実は既にいたるところで存在している。しかし、日本の新聞だけ読んでいては、その希望の光は見えない。あるときは国が勝利しあるときは民間が勝利するという振り子の揺れの中で、右往左往するしかない。心配を解消することができないまま生きるしかない。学校教育でグローバルな視点を身につけることが必要なのは、この心配の向こうにある本来的な不安を自覚し、それを受け入れる覚悟を学ぶためだが、そういう教育を公立がやらねばなるまい。
※参考→「ホンマノオト:教育と経済§6 2006年3月24日」