教育のヒント by 本間勇人

身近な葛藤から世界の紛争まで、問題解決する創造的才能者が生まれる学びを探して

日本の思想と教育

2011-05-21 07:10:54 | 
☆丸山真男の「日本の思想」を読んでいると、思想と教育は密接に関係しているのではないかと思えてくる。

各々の時代の文化や生活様式にとけこんだいろいろな観念―無常感とか義理とか出世とか―をまるごとの社会的複合形態ではなくて一個の思想として抽出してその内的構造を立体的に解明すること自体なかなか難しいが(九鬼周造の『いきの構造』(1930年)などはその最も成功した例であろう)、たとえそれができても、さてそれが同時代の他の諸観念とどんな構造連関をもち、それが次の時代にどう内的に変容してゆくかという問題になると、ますますはっきりしなくなる。

☆要するに「内的構造連関」を考える習慣が日本にはなかったのだと。そしてそれは当然教育においてもそうだったし、そうなのであろう。だから、「総合学習の時間」は、雑居学習にはなったが、雑種学習にはならなかったのだろう。

☆ICTで、再び構造というものを考えたり、創造的に破壊できたりできるようにしようというのだろうが、ハイパーテキストを雑居情報の確認として活用してしまえば、もとのもくあみである。雑種情報として編集構築できるか。そのための情報の内的構造連関を見抜く視点はどのように育成されるのか?

学習や思想家のヨリ理性的に自覚された思想を対象としても、同じ学派、同じ宗教といったワクのなかでの対話はあるが、ちがった立場が共通の知性の上に対決し、その対決のなかから新たな発展を生み出してゆくといった例はむろんないわけではないが、少なくもそれが通常だとはどう見てもいえない。

☆日本の思想のタコツボ化の話ではあるが、なによりも「共通の知性」があるのかという疑問である。タコツボなのは、学者や見識者の性格ではなく、そもそも「共通の知性」がないからだろう。タコツボから無理やり引っ張りだそうとしても、タコツボを破壊してもそれだけではタコツボ化は解消されない。

☆引きこもりや不登校、イジメというのは、そもそもこのタコツボ化現象のバリエーションの1つ。「共通の知性」としての日本の思想がないから、そうならざるを得ないのは、自己保存の原理上当然ではないだろうか。タコツボ化とは雑居の言い換えでもある。村落共同体ともいうのかもしれない。

あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互連関性を与え、すべての思想的立場がそれとの関係で―否定を通じてでも―自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当る思想的伝統はわが国には形成されてこなかった、ということだ。

☆丸山真男はだから、悲嘆する必要もないし、居直る必要もないと、この現実から出発しようと。

☆つまり、まずは「共通の知性」づくりである。もちろんこれはこれで、論理的仮説に過ぎず。絶対的なものであっても困る。戦争中は、というかそれにいたる過程は、「共通の知性」を国家が国民に押し付けてきたわけであるが、そんな神話や大きな物語はなくなって構わない。ただ、だから「共通の知性」がなくてよいかということでもない。

☆「共通の知性」を試行錯誤しつつ検証していく過程が組み込まれていなければならない。それが教育の場であり、それが現実の場においては議会や評議会、NGOである。しかし、実際には教育は固定化したというか不問に付された知識を教え込まれるだけである。試行錯誤しつつ検証するというクリティカルシンキングはプログラムとして組み込まれているわけではない。

☆知識も雑居状態なのある。それをいかに雑種知に変容できるか。そのために認識と実践において強靭な自己制御力を具した主体である革新市民に期待しようというのである。

☆しかし、その革新市民はどこから生まれてくるのか。だから、私立学校の位置づけは重要なのである。

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