日本の思想 (岩波新書) | |
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岩波書店 |
☆グローバリゼーションにおいて国際人を育成することの重要性が謳われるのは常である。
☆そして日本の文化を知らなければとも唱えられる。
☆それは、国際社会の中で日本人としての軸を仮説的に立て、
☆異文化の軸との違いをコミュニケーションしながら、
☆理解をしていくためという意味だろう。
☆もちろん、自分としての軸も仮説としてあるから、
☆日本の社会の軸と自分の軸(アイデンティティといってもいのだろう)も
☆相補的に把握することも必要あるだろう。
☆私は日本人だから、という表現は、クリティカルではない。
☆日本人としての軸と今という時代精神の中での自分とは同じかもしれないし、
☆違うかもしれない。いずれにしてもその差異を知っておかねば、
☆ただ、同調してしまう。
☆それでは、それらの軸を知るにはどうすればよいのか、
☆それは日本人としての先人たちは何を考えてきたのか知るのも1つである。
☆ところが、どうも江戸から明治にかけての日本人の思想を普段語らない。
☆日本人論や日本文化論は山ほど書店に積まれているが、
☆ルース・ベネディクト以降、つまり戦後以降の戦前日本反省文化論が
☆多いような気がする。
☆そしてその中で、もっとも反省すべきは日本の思想であり、
☆日本の思想は封印されてきた。
☆しかし、その程度のマスク隠蔽論はわかりやすいが、
☆丸山真男は、そんな「あつものに懲りてなますを吹く」ではすまされない。それ以上に
「日本思想論や日本精神論が江戸時代の国学から今日まであらゆるヴァリエーションで現れたにもかかわらず
日本思想史の包括的な研究が日本史いな日本文化史の研究に比べてさえ、いちじるしく貧弱であるという、まさにそのことに日本の思想が歴史的に占めて来た地位とあり方が象徴されているように思われる」
☆「日本の思想」そのものが明確ではなかったのではないかということまで
☆二重にマスクで隠蔽しているということに気づこうではないかということだろう。
☆3.11は、もしかしたら、戦後丸山真男が日本の思想で語った「革命」、
☆それは戦後記憶のかなたになったのだが、
☆再びそれを呼び覚まそうとしているのかもしれない。
☆日本にはいろいろな価値観や文化を受け入れてきた。それゆえ、リスクも表裏一体として
背負ってきた。これは日本史の動かぬ事実であろう。
☆原発はその流れの象徴であり、高リスクの象徴でもある。
☆しかし、日本の文化の雑居性が、リスクを回避する際に右往左往せざるを得ない
☆社会条件になっているのだと丸山真男は語る。
☆それゆえ、
雑居を雑種にまで高めるエネルギーは認識としても実践としてもやはり強靭な
自己制御力を具した主体なしには生まれない。その主体を私達がうみだすことが
とりもなおさず私達の「革命」の課題である。
☆もしかしたら、私たちの雑居日本文化は、危機に直面したら、
雑居の中から1つを選び、それ以外すべてを排除するという自己リスクを
含んでいたのかもしれない。雑居文化と合理化文化は表裏一体
であった・・・。そしてそれは今もなのだが。
☆ともあれ、その局面が、明治維新だったし、太平洋戦争だったし、
民主党への政権交代だっし、その露呈が3.11による原発事故対応
だったのかもしれない。
☆そしてその度にカウンターとして雑居文化から雑種文化へ
togetherからhybridへという動きが生まれたのだろう。
☆しかし、カウンターはのど元過ぎれば・・・になる。
☆今度こそ「雑居を雑種にまで高めるエネルギー」を認識と実践両面から強靭な
自己制御力を具した革新市民として生みだし、持続可能なものにしようではないか。。。