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流出雑記 

密度の蜜 改

2008年09月06日 | Weblog
私たちは日々,私たちの生の持続の中で、無数に散らばっている瞬間の中から、選択するということが間に合わないほど瞬時に、反射的に、あるひとつの瞬間を知覚している。
その連続の中を生きている。
この生の持続の中で私たちは大まかな流れを選び、方向性を与え、それまでの体験、知識から場面場面での自分の身の置き方を規範に沿って選択つつ様々な事の起こりを渡ってゆく。
自分のあり方は、居合わせた人々やその場によって、つまり自分の意志と置かれた状況との間でその都度選択される。
そこでのバランスを取る事。それが、社会的に関係を持ち生きるということである。

企業などの団体に属する場合、明確な目的を伴いそこへの何かしらの貢献が評価となり、その評価が自らにとってのやりがい、価値となり、社会的自己の位置を明確にすることとなる。
今言ったようにその場に対して懸命になれない場合でも、働いているという時間と安定した収入と消費、余暇を得ることでこの持続を渡る人も居るだろう。

しかし、そこにはおそらく誰もが知った上で徹底的に無視されているものがある。

社会的自己の確立の為のルールに乗っ取った知覚と行為の範囲はごく限られたものだ。
そこには我慢ならない閉塞感がある。

「知覚とは自我と環境とのそのつど一度きりの出会いである」ヴァイツゼッカー

この言葉にあるような広がりを知覚する事の中に感じられないことはとても貧しいように思われる。
知覚における一回性、その偶然の関係の間に創造的なものを見いだしてゆく事を私は生の喜びと呼びたい。

時間は流れている。
私たちは持続、時間、それ自体とも言える。

日常の中では捕り逃し続けている「今」がある。
そんなふうに思う事がある。

舞台の上演とは、役者にも観客にとっても予定された「フィクショナルな出来事」の知覚の時間である。
創られた、造られる時間。
日常の中ではひたすらに過ぎてしまう時間、私たち、一瞬一瞬。

流れの中にある私たちは「今」を捕獲することが出来ない。
が、それは常に「今」のただ中にある為に自覚できず触れられないという事かもしれない。

あらかじめ予定された筋道において既に選択された瞬間を、進行の中で知覚し、発語、動作し上演を行う、「いま・ここ」で内容を産出する舞台表現は「今」に触れようとする欲望を孕んでいる。
社会的自己における知覚の範囲では封じられる知覚を、非日常である劇の場をしつらえ、その枷を外さざるを得ないところへ拡張させる場所である。
それは目を向ける間もなく、社会的自己の知覚においては取り落としたものをもう一度手に取るように、あるひとつの行為について考える契機であり、この考える事こそが「今」である自らと対峙する思う方法では無いかと思う。