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流出雑記 

2月5日

2009年02月05日 | Weblog
3時過ぎ就寝11時起床

日々こつこつ消費していた隣からもらった餅ついに最後。最後の餅はぜんざいにした。

昨日から浮かんでいるコラージュのアイデアを形にすべくダーリンにデジタル一眼を借りて風景を撮りに出る。
今までコラージュの為に素材を自分で撮ることはなかったが使いたい写真になかなか出会わず、撮るしかないと思い立った。

いつも通る道の風景をシャッターで切り取るものとして見ながら歩く。
雑に置かれた畑道具、間引かれてひからびた大根、収穫されず置き去りにされたキャベツ、野菜を洗う水場、フェンスに絡まった蔓、カビっぽい暗さのアパート、洗濯物の干してある所、公園の藤棚、雨ざらしで錆び付いた屋上のパイプの交差。
惹かれる風景、この場所に体が惹かれるかどうか、その場所の隙間に体をどんなふうに挿入したいかを考えながら歩き回った。
体に沿うと思われる場所。隙間を探した。

造形大の中も散策。
体育館の上に何も無い広い場所がある。学生の頃よくひとりで来たところ。
大学の山の道を歩いていたら後ろからにゃーにゃー聞こえる。背の低い笹の茂みに黒い子猫が丸まっていた。
足下に近づいてくる。ついて来ているのかいないのか一緒にしばらく歩いた。途中で水とボウルの餌場があった。誰かが餌付けをしているらしい。

帰りにギャラリーRAKUに寄る。『鬼海弘雄 写真展』が今日からだった。
街で出会った人々を撮ったセピアのポートレイトが並ぶ。撮られた人々は皆どこか奇妙だ。
年をとった人の写真が多かったが、なぜそんな煮詰まり方をしていったのだろうと思うような独特な容姿、服装。
訳ありでない人などいないと思わされる面々。この人たちはどのような日々を営んでいるのか、何をして何を考えて…そんなふうに想像させられてしまう、写真に撮られた平面からその奥行きに引きずり込まれてしまうような素通りできない力のあるポートレイト。
会場には風景だけを撮った写真集も置いてあった。
東京の街並を撮ったもの。人は写っていないが生活の煮詰まったような家々の軒先、平然とそこにあるようでよくみると奇妙に思える固執や無遠慮な個々の生活のにおい。ガーデニングと呼び難い、発泡スチロールで育てたネギなどよくわからない玄関先の植物の増殖、干されたと言うか晒されたというような洗濯物の干し方、風化し始めているトタン、過剰な看板、塀にびっしりと這っている蔦など。
廃墟写真も好きだが、人が暮らしていてその切り取られた日々の風景のひとつ、その形が形として奇妙で面白く魅力的であるというのは立ち入り禁止でない身近なところにある静かな危うさを見てしまったようで、さっき大学の山の上から見た無数の屋根の家々はそんな危うい箱が並んでいるもののように思い出された。








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