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流出雑記 

2015/11/16

2015年11月16日 | Weblog
なんだか疲れている。勝手に疲れてしまっている。忙しさなどではなくて受け取るものから疲労する。
テロ事件、その報復、それらの情報、SNSのタイムラインに着色される悪意のなさゆえに可能な暴力的振舞いや、正義感のようなもの、正しさの振りかぶったもの、個々のあり方の自由さを促しつつ、それを見えないよう手玉に取っているサービス提供側の意図が垣間見えたり。
平素はグローバルに人々をワンクリックでゆるく結ぶ束縛のない見かけのツールであるし、押し付けのない力加減で例えば何かの告知をできたり、実際必要な情報を得たり、緊急時の安否確認などに役立っている。反面これはコミュニケーション自体を、心を扱う商売であることが露骨に見えても来る。

衝動買いした『数学する身体』という本を読み終えた。著者の森田真生という人はどうやら京都在住で私より若い方で、読後感は一言でいえば清々しかった。
私はといえば数学は、算数の時点で早々に離脱して、二桁の暗算も割り勘の計算も電卓か人まかせなくらい避けて通ってきた。どれくらいわかっていないかというと、二次関数が何のことかもう思い出せない。なんかグラフだった気はする、という有様だから数学する身体のことはきっと皆目わからないと思って本屋でぱらぱらページをめくって開いたところに

第二章 計算する機械
「過去なしに出し抜けに存在する人というものはない。その人とはその人の過去のことである。その過去のエキス化が情緒である。だから情緒の総和がその人である。 岡潔」

とあるのを読んで、数学する身体と題された本のなかに情緒という言葉が含まれるのはどういうことか知りたくなった。
読んでみてわかったのは、自分では閉ざしてしまった数学の世界には、どうやら私が嫌う要因だった計算して正しい答えを求めよ、というものの先にもっと解けないような複雑さのなかに分け入って直観的に出会っていく世界や、心の探究に入っていく道筋があるらしいことを知った。

「頼りなく、あてのない世界の中で生まれて亡びる身体が、正確に、間違いのない推論を重ねて、数学世界を構築していく。」「曖昧で頼りない身体を乗り越える意志のないところに、数学はない。一方で、数学はただ単に身体と対立するものでもない。数学は身体の能力を補完し、延長する営みであり、それゆえ、身体のないところに数学はない。」

もしまだ数学を勉強する環境に身を置いているときにそういう言葉を聞く経験があったなら、数学との関係も変わったかも知れない。嫌い、わからないが先立ってしまった数との出会いは、私とは関係なく感覚をひたすら硬直させるものとしか思えなかった。
数学者の岡潔という人は、数学の中心にあるのは「情緒」だと言い、数の先にそういう柔和な感覚の広がりがあることはいずれにしても私には未知の世界だけれど、数学が身体と相容れないものではないということはわかった。その関係はまるでダンスの起こりのように感じた。
それで興味を持ったのは、数学というアプローチから身体と出会った人がダンスを作るとどうなるのだろうということ。
今から私が数学を学ぶより、踊る身としてはそこから見出されるものを踊ってみること、その体感をトレースすることに興味がある。そんな機会を持つことが出来たらいいなと結構ほんとにやってみたいと思った。

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