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流出雑記 

2015/11/27

2015年11月27日 | Weblog

『リアクション』福井公演を終え、京都に戻ってつかの間東京、今朝京都に戻ってきた。

福井で、地方都市で初演をすることの意味について考えた。私は生まれも育ちも京都で今も京都に住んでいる。京都も一地方都市ではあるけれど、舞台作品や現代美術の展示を見る機会や場所には恵まれた環境にはある。そのため観客となる人たちも見ることに忍耐のいるものを見慣れていたり、舞台活動に携わっている人だったり、比較的演劇、ダンスを見慣れた目、そして見知った人が多い。そこで上演されるものは、良くも悪くもそういう目が並ぶ観客席を想定している感があるということを、今回福井で初演をするまではっきりと自覚したことがなかった。福井にも小劇場や劇団はあるけれど、多種多様な表現のトライアルに触れる機会というのはやはり少ない状況にある。そこで上演されるものが、何かものを見たときに起こる、いつもと少し違う感覚やそこから考えうる個人的な動きに届かない「こういう表現のことよく知らないから、わからなかった」時間にしないための、作品を手渡す手つきが必要になってくる。わかりやすく説明するということではなくて、どのような構造で作品の謎や不可解さを支え、そのまま明快に提供するかという問題だと思う。そこを必ず踏襲することがそのまま創作の導線になるのだから、日々稽古場に籠っているうちに見失いがちな視線を常に保ちながら、引きの視線が構造を鍛える一要因になっているのだなと、作品の輪郭があらわれて来たときに思った。

でそういう部分を作って行くのは演出/構成の仕事で、出演者は上演時間のなかでその作品に必要な生きる状態を探る。そういう作業をしているときに、引きこもりがちなものを一緒に連れて出る気持ちになことがある。引きこもりがちなものは、何かしらの方法を介さない限りそのままでは社会的には浮かばれない生涯未発達部位のようなもので、効率の良い作業をしようとすると完全に邪魔になるし、特に何かをできる訳ではない。うまくやれもしないのに表現にとっての必須要素で、例えば引きこもりがちなものは個人的な作業、描いたり、書いたりするときの状態に必ず重なって出てきて私を動かす。他人がいるところで引きこもりがちなものが振舞って何か良い方向に作用するのは踊るときくらいで、一般的な社交の場で引きこもりがちなものが台頭すると大概ろくでもないことになる。ある程度歳をとってそのことがわかってくると対処法も身についた。 引きこもりがちなものは引きこもる性分でありながら、自分がいるということは暗に主張してくる。むしろ狙いはそこかも知れない。引きこもることで何よりその存在を意識させるやり方で、私に姿を隠しつつ、人前にさらされようとする。舞台を辞められない理由は引きこもりがちなもののせいだということはほぼ確信している。それはひたすら我欲で社会のことも他人のことも考えていない。そういうものが関わる余地がない。そのかわり変わることがない。矛盾のなかの捻れから生まれる躍動を担っている前表現状態。それでこの引きこもりがちなものを対象化しない限り私の目的はいつまでも私になってしまうので、そこからの反発は表現活動に携わるときの動力として利用しなければならない。引きこもりがちなもの自体はずっと謎のままでよく、これは私の前にすでにあったものとしか思えないそういう性質のもので、尚かつ多かれ少なかれ意識的、無意識的に関わらず誰もが持っている要素であるとも思う。そこにはもしかしたら一縷の希望がある。理解ではなくて、どうしようもなさの共鳴みたいなものとして。


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