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流出雑記 

2010/3/01

2010年03月01日 | Weblog
台所で甘酒を作ろうと酒粕を溶いていたら風呂の方から突然バシャッと何かが湯船にはまった音がした。
そういうとき何かと言うのはまず小梅。慌てて風呂場をのぞきに行く。
風呂場に小梅はいない。驚いて飛び出した余韻で浴槽の水が波立っているのと脱衣所が水飛沫でかなり濡れているが本体は見当たらない。しばらくこうめ~こうめ~と呼んでいると、裏の物置棚の隅から小さくニーと返事し、後ろ足としっぽだけ濡れた小梅がしょんぼりあらわれた。
浴槽のふちに登って足を滑らせたのだろうか。頭からでなくてよかったが、風呂場のドアを開けっ放しにするのは気をつけよう。下半身だけ毛が濡れた小梅はげっそりしたみすぼらしそうな格好だっかが、ストーブにあたっているうちにいつの間にか乾いてもとに戻っていた。
春が近づいてくると小梅の動きも活発になる。昨日は触角が長く胴体の丸いトノサマバッタのような虫を捕まえてきた。今日は玄関先に出ている時に、見たことのない猫が小梅に近寄って来た。よくこの辺をうろついているのは太った牛柄の猫だが、今日のはきりっとした牛柄だった、息子かもしれない。

ここ数日雨音ばかり聞いている。
余った酒粕と母からもらった大根2本の活用法を考え、蒸しパンを蒸し、絵を描いている。

「見えるものは見る能力の裏側である」 メルロ=ポンティ

「〈図〉が成り立つとき〈地〉化されるものを問わなくてはならない。ある〈図と地〉のが成立するとき〈地〉として抑圧される図化可能性があり、分断され、解体される可能的〈図〉がある。」 市川浩

図的なフォルムが見いだされたその背後にあるもの、〈地〉には〈図〉が塗り込められている。
〈地〉の中にも〈図〉の萌芽があり、〈図〉は彩度、明度、構図の関係のなかで浮かび上がるフォルムではあるが、〈図〉が目的なのではなく、むしろ図と地関係で構成する視覚的配慮以上に〈地〉のなかに〈図〉を産むまでの痕跡がうごめいているものを描きたい。 

大根をおろして小麦粉、片栗粉を混ぜて焼く、大根もちのようなものを日々作って、既に1本目の大根はそれで消費した。
自分のぶんだけで良い食事は気が付くと餅的なものに偏っている。
京都の古い風習で毎月1日と18日に赤飯を炊く習慣があると何かで読んだことがある。1日のことは「おついたち」と言って、特に商売人の家ではそうしていたらしい。
赤飯の素というのを見つけて買ってみた。小豆入りのどろっとした赤飯の素を熱いごはんに混ぜると赤飯風になる。あくまでも赤飯風だったが、赤飯欲は満たされた。

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