4月のはじまりはほぼ一日中桜を濡らす雨だった。散らさないくらいの。
ばらの発育、日に日に葉数をふやしている。ただモッコウバラだけが裸のまま沈黙している。毎年最初に咲くのはモッコウバラだけれど、今年は芽の膨らみすらまだない。去年どうだったか読み返すと4月23日には咲いている。今から急に育ち始めるとは思えない。もしかすると、特に発育が早い品種だから狭い植木鉢のなかで根詰まりをおこしたのかも知れない。他のばらより手はかからないけれど、同じように水や肥料をあげていたのに。このモッコウバラは黄色なのだけれど、黄色という色をあまり好きではないなと植えた後に気付いて、その心境を悟られたのではないかともちょっと思う。4月末まで様子を見る。
詩について詩人とやりとりをしていたら書いたものを読んで、日常、時代、自己を生きながら内部に降り積もった「認識」のツブや思想が詩を書かせている、と言われそうなのかと思った。そういう言葉で縁取られるとき、症状や手相を見られているような感じがする。
けれどやっぱり読み手の入る隙というか、そういう部分をもう少し作った方がいいと。作っているつもりだけれど足りない。たぶん想定している他者の幅が狭いのだ。
やや逸れるが誰にでも平等に接するようにと言い出したのは誰だろう。そんなこと不可能だ。人と会って話すときに自分の反応や振舞いは相手からすべて引き出されてしまうものと感じるからで、それが同じであるはずがない。そして人といることはその鏡像関係が何よりおもしろく、映ったり写ったりする時間を過ごすことが人といる意義だと思う。そういうふうに人といようとしてしまう。小さい頃からそうだった。人数の多いところで会話することは、同じく人といることでもまったく違う。特にそれが他愛のない会話だと、みんな話すのだから自分が発言する必要がないと思ってしまう。かつ誰の何を反射させていいのかわからなくなり間に合わず口数が減る。でも楽しくない訳じゃないので雰囲気を悪くしないため、それなりに適当なことを言ってみたり、場にいる術も歳と共に多少は身に付いた。そういうときの会話は会話というよりひたすらの相づちのようになる。言葉を失わずにいられるのはふたりで話すか、ひとりで言葉を書くときで、この感覚は書くものにも反映されてしまうのだろうと思う。でも書き言葉だとそれを崩すことができる。一語一語点検ができるから。時々文章がうまいと言われることがあるとそれは散々点検してほどいてるゆとり分があるからだと思う。私にとってやる必要のあることだ。