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流出雑記 

our daily bread

2009年08月29日 | Weblog
『いのちの食べ方』を見た。
原題は『our daily bread』オーストリアのニコラウス・ゲイハルター監督。
私たちの日々の糧がどのようにして育てられ、商品となるか、消費者が普段目にすることのない過程のドキュメンタリー。
肉、魚、野菜、果実、スーパーに並ぶ食料品は、効率よく、低コストで安定供給できるよう、大量生産されている。それはどういう構造に支えられているのか。

あまりに広大なりんご畑。気の遠くなる数のりんごひとつひとつに虫除けの袋をかける為の人件費を省くには、飛行機を一機飛ばして農薬を撒けばいい。
結果消費者はいつでも取り合う事無く安いりんごを買うことができる。食後のデザートに、朝食にりんごジャム、もしくはアップルパイなどになり、消費者はそれらを胃に収めて排泄し、またりんごを買うので飛行機は農薬を撒き続け土壌に蓄積される。

ベルトコンベヤーで黄色いひよこが大量にピヨピヨ流れてくる。
それを、白衣の女たちが袋に駄菓子を詰めるかのような手つきで無表情に、鷲掴みにして分けていく。
牛、豚、鶏もりんごと同じに大量生産され、効率よく、捌かれ、肉になる。
その様はあまりに機械的で非情なのだが、この映画は一切のナレーションを挟まず、動物の「何かを訴えかけるような瞳」も誇張して捉えようとせず、その生産システムとそこで働く機械と人を傍観し続ける。
夥しい動物たちの放つ臭い、生暖かい血。生理的に避けたいような状況で淡々と作業をこなす人々。
従業員たちは働いているだけで残虐でも非道でもなく、ただありついた仕事がそれだったのだろう。作業に疑問を持つ暇もなく皆日々の糧を得る為に仕事をする。
しかしそんなシステムを考えだし、当然の如く、或いは知る由もないままその上に成り立つ世界に生き、生産する者、消費する者すべてが加担してどこか狂った事態を円滑にしてしまっている。何気ないふうに。
そして何より、なぜ私はこの事態にもっと罪や憤りや恐れを感じないのか。

オリーブか何かの木の実を収穫するシーンがあった。小型のショベルカーのようなもののアームの先端で木の幹を挟む。何をするのかと思っていたら、工事現場でアスファルトを割るような音と振動で木を揺すった。それと同時に大量の木の実が地面に叩き付けられる。痙攣させたという方が正しい。収穫というより搾取のようなその振動に冒涜というものを感じた。
そしてそういう振動は世界に隈無く行き渡り、冒涜を気付かぬほどに染み渡たらせ、私たちはいつの間にか麻痺している。
物質的に豊かな生活を享受し、良しとする生活をする人々に、この映画は一時釘を刺すかも知れない。
でも恐らく忘れ去る。
麻痺しながらそんなことはどこかに散乱してしまう。という予感を自分に持ちつつ今これを書いている。
なまぬるい諦めの気分が胃のあたりにある。胃液に混ざってアメリカ産グレープフルーツやタイで捕れたエビや福井県産コシヒカリやトンガの南瓜を消化する。
豊かなグローバル身体、それでもやはり居直りきれず、変な体勢になってしまう。私はそのフォルムを叩き込む。