坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

死事人

2010年07月31日 | 坊主の家計簿
 1 千葉法務大臣。死刑せえへんかって落選した千葉法務大臣が死刑を執行。まあ、死刑制度についての議論は別に死刑執行せんでも出来るわけやろ。まして法務大臣やねんし、刑場を公開する事だって、死刑を執行せんでも出来るわけやろ。死刑執行して、次の選挙では「私はちゃんと法務大臣として人を殺しました」と。立ち会った態度は罪の自覚からして素晴らしいけど、イヤな言い方をすると「人を殺してまで次の選挙に当選したいんかい」と。
 まあ、法務大臣を続けて、また、次の選挙にはキチンと当選して、死刑制度を廃止する為に法務大臣まで任される政治家として、キライな言葉だが、頑張って頂きたい。まあ、私なんぞに言われんでも、本人が一番自覚なさっておられるのだろうが。

 2 大野君!!!おめでとう!!!!!である。
 いや、友人の親友が、あ、記念に全文掲載

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 第22回堺自由都市文学賞を受賞 星野泰司さん41
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撮影・永井哲朗
 葬儀会社の若手社員の葛藤(かっとう)を描いた受賞作「俺は死事(しごと)人」は、僧侶である自らを重ね合わせた。葬儀で利益を追求する仕事に悩む主人公が、独り暮らしの老婦とのふれあいなどをきっかけに生きがいを見いだしていく物語。「生死は表裏一体。死と向き合うことで、生きる喜びを感じるはず」と願う。
 大阪の町工場に育ち、大学では仏教学を専攻したが、中退して小説家を目指した。30歳で再び、仏教の専門学校へ。そこで「仏教の教えは人が幸せに生きる知恵。素晴らしさを伝えたい」と、浄土真宗の僧籍を取得した。
 最初に勤めた大阪府内の“葬式寺”で、年間約100件の葬儀をこなした。布教とは無縁のビジネスに戸惑った。それでも生死にかかわった人に向き合い、悩める心を穏やかに導く活動に目覚めた。今も府内の別の寺で、檀家(だんか)らの「心の往診」に努める。
 奇抜なタイトルは「僧侶も葬儀会社の仕事も、死に直面する重い仕事だから」という。堺自由都市文学賞は今回で最後。「何が何でも取りたかった賞。間に合って幸運です」。6作目で栄冠をつかんだ。(大阪社会部 阿部健)
(2010年7月29日 読売新聞)

 http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20100729bk02.htm

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“生”への願望全編に」
堺自由都市文学賞受賞
 28日発表された「第22回堺自由都市文学賞」(堺市など主催、読売新聞大阪本社など後援)で、受賞作に選ばれた柏原市国分市場の僧侶・星野泰司さん(41)の「俺は死事(しごと)人」。僧としての体験を基に、葬儀会社の若手社員の葛藤(かっとう)を描いた作品に、選考委員の作家3氏は「鮮やかな人物の造形」「“生”の願望が全編を通じて想(おも)えてくる」などと高く評価した。

 選考委員の藤本義一さんは「主人公の“正直”な心象が、ゆっくりした物語の沼を描いて進行していく」と評し、眉村卓さんは「焦りや義務感、仕事に伴う心理などが、過不足なく描かれている」と称賛。難波利三さんは「題名の不気味さとは不似合いな、気持ちの良い読後感」とたたえた。

 星野さんは、これまで書いた小説の大半を同賞に応募し、6度目の挑戦。最終回で受賞し、「ホンマに読んでもらいたいと思える先生に読んでもらえ、この賞に懸け、この賞で物書きとして成長してきた。喜びはひとしお」と語った。

 佳作には高知市の片岡真さん(37)の「桜咲荘(さくらさきそう)」と、河内長野市の船越和太流(わたる)さん(64)の「伊津子の切符売り」、堺市長特別賞は同市南区の会社員松川明彦さん(41)の「うたかたのうた」が選ばれた。表彰式は11月20日、市立西文化会館で行われる。

(2010年7月29日 読売新聞)

 http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20100729-OYT8T00082.htm

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 で、ある。
 ちなみに東京・四谷坊主バーが出来た当初に行かれた方は「星野?誰やそれは?」なのかも知らんが、要するに「大野」である。複雑な事情で「大野」なのだが、まあ、星野でもある。
 私も友人の親友なので何度か会った事がある程度しかないのだが、やはり嬉しい。むっちゃ、嬉しい。
 いや、単に「これでこれから作家の道が開けるかも知れんのぉ。そしたらオカンに楽させてあげれるかも知れんのぉ」っちゅう事もあるにはあるのだが、選んだテーマが一番嬉しい。

 「僧侶も葬儀会社の仕事も、死に直面する重い仕事だから」

 という言葉は、ホンマ、素晴らしく、涙がちょちょ切れる。
 私も僧侶として最初に働いた寺がいわゆる『葬式寺』だった。ただ、大野(星野)君が働いていた様な『大手』ではなかったが、それでもかなりの数の葬儀を任せて頂いた。で、その寺の住職より、葬儀社の仕事がどれだけ大変な仕事であって、営業に何度も何度も足を運んで本当に信頼されて「あんたに私の葬儀を任せたで」と言われるぐらいの信頼が出来て葬式を任せて貰えるのだと。で、私は、その葬儀社の方が取って来られた仕事の中で「僧侶」としての役割を任せて頂き、私が受け取る給料は別にして、恐らくその営業の方の月収近い金額を『布施』として預かるわけだ。預かってたわけだ。いや、ホンマ、頭が下がるで。
 いわゆる『葬式寺』は評判が悪い。なんせ、「うちの檀家を取りやがって」とか「うちの地域の檀家を取りやがって」とかである。まあ、ヒマなバーのマスターが「うちの客を取りやがって」とボヤいているのと変わらん。
 けど、まあ、いわゆる『葬式寺』がセリエAなのも知っている。檀家制度にあぐらをかけない緊張感が『葬式寺』にはある。

 「僧侶も葬儀会社の仕事も、死に直面する重い仕事だから」

 である。

 『葬式寺』で働く僧侶を『葬式坊主』と言ったりもする。多くは蔑視である。『葬式寺』も蔑視である。『葬式仏教』も蔑視である。
 でも、なんでメシ喰ってまんねん。法話だけでメシ喰える、あるいは学問だけでメシ喰える僧侶がどれだけ居てまんねん。多くは、葬式に関連する月参りも含めた仏事でメシ喰ってるのと違うんけ。それが『解りやすい形』だから「俺は葬式ばっかりしてる寺(僧侶)と違うねん」なのかも知れんが、真宗にとっての葬儀は念仏相続の仏事でしかないわけだし、仏教は対機説法だから、葬儀の現場には葬儀の現場の法話があるだけの話である。その為のテクニックとしてグリーフケアなんぞもあるし。グリーフワークも「中陰中に正信偈を憶えましょう」とやっておられる方も居ている。

 もっと言うのならば、ビハーラは葬式仏教である。諸々調べると、なんか、「葬式仏教と呼ばれたくないからビハーラをやっている」なんぞという意見もあったが、何を寝言こいとるねん。ビハーラだけして葬儀は誰かに任すんかい。「私たちビハーラ僧は死人ではなく生きている人を相手にしているんです」なんぞと寝言をこくんかい。葬儀には遺族が居てるし、誰も立ち会わない葬儀だって、葬儀社の人は居てるし、まして、読経している私が居てるではないか。
 たった一度の誰にも代わる事が出来ない尊い人生を送られた方に「ごくろうさまでした」と。冷蔵庫の前だろうが、どこだろうが、その人に向き合う態度が生きている人間に問われる事ではないのか?「冷蔵庫の前で参列者も居ないし適当にやろ」は、故人に対してだけでなく、生きている私も含めた人間に対する冒涜である。
 あ、冷蔵庫、って、葬儀社の冷蔵庫ね。腐乱が激しい場合、冷蔵庫で葬儀をやるらしい。まあ、葬儀社によって、あるいは季節によって違うのだろうが。

 ん?話が。
 いや、大野(星野)君が受賞した事も嬉しかったが(書いたか。。。)、やはり、作品である。
 この作品が出版社から出版されるのかどうかは知らないが、出版されると嬉しい。同時に話題になったりするともっと嬉しい。
 この作品が有名になったりするともっともっと嬉しい。だって、『葬式坊主』のイメージが変わるっしょ。だって『葬式坊主』だったから書けた作品なんだろうし。(ちなみに現役の葬式坊主は小説を書いている余裕はほぼない)。

 ちなみに大野(星野)君が働いて居る寺には、若手本願寺派一の運動坊主が居ている。
 彼も、運動系の本を出すらしいが、この『運動坊主』と『葬式坊主』とを比較したりすると、これは個人的偏見も踏まえた上なんだが、やはり『運動坊主』は「かっちょエエ」になったりする。個人的偏見だけでなく、結構多くの人達も同じ意見だと思うのだが。まあ、確かにエエ仕事してはるし。
 でも、多くの『悲嘆の現場』で活躍されているセリエAの葬式坊主だって社会派やろ。悲嘆の現場でっせ。

 ん?酔いが。。。疲れてるから、酔いが早い早い。
 なので、親鸞が善光寺聖としての仕事でメシ喰ってたという事については、また後日。