坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

唯一の癒し

2010年07月19日 | 坊主の家計簿
 結構忙しい日が、むっちゃ忙しい日に急遽変更。「ああ、御仕事を頂ける幸福。。。」と、ヒマな寺の住職はシミジミ思ったりする。

 帰宅する。帰宅してからも明日の準備が山程あったのだが、とりあえずメシを食わねばならない。また、娘とのコミュニケーションの時間も少し欲しい。だって「ママ!ママ!」だし。パパ、寂しい。。。なんだが、パパは寺を守りつつ家族を養っていかんとアカンので御仕事、御仕事である。
 で、メシを食べ始めたのが20時。そうなのである。龍馬伝の時間である。娘がガサガサしてたりしてちゃんと見れないのだが、まあ、見る。
 「あ、蒼井優ちゃんや!」と。早速娘に「ほら、蒼井優ちゃんだよ」と紹介するのだが、娘はことみちゃん(NHK教育『いないいないばあっ!)の方が好きみたいである。なのでイマイチ興味を持ってくれなかったのだが、んな事は関係なく、パパは龍馬伝を見る。
 
 見ながらフト思ったんだが、幕末には吉田松陰の所なんぞを筆頭に様々な塾があり、様々な先生が居てた。で、色んな所を訪ねた人も結構おったんだと思う。
 母校・大谷専修学院も過激な道場だが、藩(教団)のものであったりする。教団外から大谷派の僧侶資格を得る為でなく、例えば知ってるだけで浄土宗や、本願寺派からも来られていたが、まあ、藩(教団)のもんである。
 そう考えたりすると、例えば無くなるという噂がある『オモロイ坊主を囲む会』なんぞは脱藩浪士の集まりか(笑)あるいは、ひとつの寺でひとつの教団ぐらいの(以上だったりしたりして。。。)パワーがある應典院(http://www.outenin.com/)なんぞは松下村塾か。
 なんぞと意味なく考えてみたりする。
 いや、ほれ、最後辺りで長州藩と薩摩藩が揉めまんがな。で、その時に坂本龍馬が「日本人同士で争っている場合でないぜよ。そんな事してたら日本は宇宙人に侵略されるぜよ。最早UFOは地球に来とるぜよ。だから次の参議院選にはもう一度党として候補者を立てんとアカンぜよ」とか言ってましたやん。あのシーンを見ながら思ったわけである。

 これはブログに書いたのかどうか憶えていないが、今は宗教の時代ではないかと勝手に思ったりする。坊さんには評判が悪い、悪い割にその実「読んだ事がある人が少ない」、島田氏の『葬式は、要らない』だって、あれは宗教本でっせ。島田氏がなんかの雑誌に「葬式や戒名が象徴的な『こうしなければならない』という固定概念を壊したい」みたいな事をインタビューで答えてあったけど、それって仏教に通じる所がありまんがな。龍樹好きの宮崎氏なんぞが『葬式は、要らない』に関してどういう評価をしているのか知らんが。。。
 また、江戸時代の遺物である檀家制度の中で仏教に出会う人も当然多くいるが、伝統仏教から「離れようとする」「固定概念で決めつけられた事から解放されたい」っちゅうのは、もの凄い宗教精神だと思ったりするのだが。そして、きっと『いわゆる世間の目』や、親族なんぞから批判を喰らったりしながら「伝統的な葬式はしない」っちゅうのは、もの凄く宗教を求めている気がするのだが。だからチャンスだと感じる。
 また、昨今の『癒しブーム』でも、基本にあるのは「癒さなければならない私」であり、道を求めておられるわけだ。高遠氏を含めて。
 自分の言う事を聞くペットを飼うのも、背景には孤独がある。癒しを求めざるを得ない、つまり、宗教を求めざるを得ない『働き』がある。ネットが流行るのも「私を見て」であり、「誰かと通じたい」であり、「何かに触れたい」である。ツイッターなんぞ、その筆頭やろ。あの見事なまでの、まあ、丁寧に書いておられる人も居てるが、多くは「それがどうしてんや」である。「今から朝飯」って、「それがどうしてんや!」なんだが、ヒマな時には読んでしまっている。そして、その人の生活実態に触れる喜びを感じたり出来る。毎日読んでいるツイッターの人で、何宗か解らんが僧侶の方のツイッターなんぞは、自分で「自分が書いている事は下らんし、これを読むのは変態である。」みたいな事を書いてあって、で、確かに、ほぼ、何の意味もない事を書いて居る。しかしながら、すべての言葉の心底には「みんなと一緒に生きたい!」「解り合いたい!」という働きがあると私は勝手に信じているので、ダラダラと「下らん事、書いとるのぉ。。。」と読んだりしているのだが。

 文明が盛んになり、『個人化=孤独化』が進めば進む程、宗教は求められる。人間は、どこまで行っても人間でしかない。
 それが『バー』だろうが、暴走族だろうが、ミクシィのコミュニティーだろうが、2チャンネルの『名無し友達』であろうが。人は人を求める。
 疲れた人は、人間社会から距離を離したがる。あれは距離感の問題である。その距離感が一定を求められるのであれば、しんどいだけである。全く知らん人からタメ口を聞かれたら「はあ?」と典型的「敬語か目下に対する言葉か」の日本人バリバリの私は思ったりする。その距離感の問題で、自分の距離感に適応しない人、あるいは『世間』の距離感に適応出来ない人を『ひきこもり』なんぞと決めつけてしまうのは如何なものなんだろうか?そして、その『ひきこもり』という幻想で、自分すら縛ってしまって「私はダメだ」等と抑圧してしまっているのは一体なんなのだ?

 先日、何を読んでいたのか忘れたが、『無限』という言葉に出会った。
 自他を縛るのは『限り』である。限りが無いから無限である。固定概念からの解放である。


  あたかも牢獄を逃れるごとく
  人はみな自己の前を逃れんとすれども
  世に一つの大いなる奇跡あり
  我は感ず 『いのちみな生きらるべし』
  (リルケ)


『己に願いはなくとも願いをかけられた身だ』(藤元正樹)


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 滅多に飲まないコーヒーを飲んで、栄養ドリンクを2本も飲んだのでテンションが。。。焼酎で下げているのだが。。。

 なので、オマケ。

【信心は自力の心のない百パーセントの信頼です。英語には「信心」にかわる言葉がないのです。だから私は、英語に訳すときには蓮如上人が使われた「安心」という言葉を使います。「心が平和に落ち着いたさま」ということで、英語のピースですね。けれども意味としてはピースを越えています。
 浄土真宗の教えが私に教えてくださったことは、自己をありのままに見ること、ふつうの人間としての私自身を受け入れること、そして、自分の人間らしさと常に接触を保つということです。人がなしうるもっとも偉大なことは、偽りのない自分ーーー限界を背負った弱い存在ーーーに気づくことですね。そのことが真に目覚めることの出発点であると思います。】(ピーター・ライト。東本願寺「真宗会館」の情報誌『プラ・ティ』2010vol.7より)

 『世界でひとつだけの花』は大ヒットした。

【金子みすゞは「みんなちがって みんないい」と歌ったが、その裏にある彼女の苦悩は想像を絶するほど深い。
 しかし、みすゞは、「みんな問題をかかえて生きているんだ」という視点を見つけることで救われ、皆と和解し、人間に差別をみないやさしさを得た。】(蓑輪秀邦『仏教の人間観』真宗2010年7月号142頁より)