坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

無二のスピリチュアル・ケア

2010年07月14日 | 坊主の家計簿
 「今週のパパは忙しい」宣言により、ママ、不機嫌。
 ちなみに、昨日は24時30分頃の帰宅。ママ&娘は当然睡眠中。
 本日は19時30分過ぎの帰宅。
 「晩ご飯食べれるのは今日ぐらいしかないかも知れん」と言っていたのだが、ママ、不機嫌。帰宅したらイズミヤ系でよく見かけた198円のバラ寿司(ちらし寿司)が。。。「あんな、これは夜の7時頃から半額になってやなぁ、しかも人気がないから必ず半額になるねんや!」と言いそうになったのだが、不機嫌なママをこれ以上不機嫌にさせても仕方がないので、パソコン仕事をしながら198円のバラ寿司(ちらし寿司)を食べる。若干怒っているので、炒め物は食べなかった。
 
 っちゅうか、帰宅したら、ママと娘の入浴タイムだったので「今日の晩ご飯は?」と聞けなかったので、テーブルに置いてあるものを一人で食ってエエもんか解らんし、今日はすっかり御仕事モードだったので、帰宅して速攻パソコンで御仕事御仕事であって、ママと娘が風呂から出て来ても、止まるわけがなく、ひたすら御仕事御仕事である。
 
 ちなみに、今週は忙しい。月曜日から金曜日まで、朝から晩まで予定がパンパンである。
 んが、これって、ヒマな寺の住職にしては珍しい事であるが、サラリーマンだろうが、バーテンだろうが、工員だろうが、こんなもんである。「晩ご飯食べれるねんやったら電話して来てね」みたいな話も多々ある。娘が早寝だからママも寝てるが、うちはいったん寺の仕事が終わってからの外出なので、娘の顔も見れるし、抱っこも出来る。ただ、今日も、恐らく明日も「少しでエエから脳みそを休憩させてくれ。。。」っちゅう感じになるのだが、世の中の多くのパパよりは非常に恵まれた環境にある。その分、金はないが。。。

 ちなみに、寺でも忙しい所は忙しい。最初に働いた寺は、大真面目に一日平均10時間ぐらい働いていた。『葬式寺』と呼ばれる寺で働いて居られる人達の労働条件は、厳しい場合がある。これは私ではないが、マイカーで一日300キロ(!)走って、ガソリン代も出ずに日当が確か1万3千円という話も聞いたし。思わず、以前に運送業界で働いていたので「運送屋以下やな」と、その旧友に話した事がある。
 なので、これまた『ちなみに』なのであるが、その次、要するに今居る寺の前に働いて居た寺の住職の悪口をいうヤツは許さん。。。なんか違う気もするが、んなもん個人的体験では大恩人である。
 ちなみに、最初に働いていた寺の住職にも今となっては非常に感謝している。だって、最初の半年以上は、どう考えても使い物になれへんかったし。使い物になれへん状態で、散々、月参りや、山程の法事や、かなりの件数の葬儀をやらせて頂いたお陰で、今は経験年数の割には『位牌以外』はベテランでっせ(笑)

 ん?上がったテンションを下げる為に飲み始めた酒が、そろそろ来とるのぉ。。。

 個人的体験。
 個人的経験。
 個人の人生=それぞれの人生。

 ヒマが当たり前だから、当たり前でなくなった時に不機嫌になるのは当然であったりする。だけど私は過去の仕事経験等を振り返りつつ「んなもん、何が『親として失格やねん』」と、ママが冗談まじりで『親として失格』と言った言葉に対して「ムカ!」っとしたりする。そして私を立てる。
 「この暑い中、慣れないネクタイ締めて、スーツ着て仕事しとるねんぞ」と。「それもこれも銭の為やんけ」と。「その銭で」(ここから出来れば大きな声で読んで頂きたい)「お前等を食わしとるねんやんけ!!!」と、横暴パパ。独裁者パパ。忙しい事に対する対象を、テンションが上がっている事を、疲れを、ママと娘に向けてしまったりしている。

 今日は、参加出来なかったが、母校の夏合宿二日目。夜はテーマ座談。今年のテーマは『真実に生きよう』であり、サブタイトルは

 『我ら、深き悲しみに立たん』

 である。

 もう、私の生活は『私は、自己満足にしか立てない』であり、『私は、他人を踏みつけて我が身を立てる』であり、『私は、家族を道具にして我が身を立てる』でしかない。
 それが、我が身の真実である。生活実態である。
 「『生活』という言葉の裏には『死殺』という言葉が隠れている」と、恩師から教えて頂いたが、私の生活の上は血塗れである。
 
 最近、平気で虫を殺すようになった。「娘が」という大義名分で、ママに「殺虫剤買って来て」と頼んで、殺しまくっている。問答無用である。「テメー、うちの娘に何をしようと思ってるねん」と、殺しまくる。「娘の為に」という大義名分が出来たので、平気になって来た。ただ、これも厳密にいうのならば『娘と関係している私』であり、基本は『私が大事』でしかない。その『娘』も非常に固定化された、私にとって「こういう風にあって欲しい」という娘でしかない。同時に「私にとってうっとうしい」である。それを『娘』という言葉を使って罪から逃れようとしているだけの話である。娘を罪逃れの道具にしている。

【誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし、と。】(親鸞)

 という言葉が好きだ。『好きだ』と言ってしまうと怒られそうな気もするのだが、好きなものは仕方がない。『好き』という感情表現で伝えたい言葉なので仕方がない。その言葉が発せられる流れ的に、その次の展開との間の言葉。

 『我ら、深き悲しみに立たん』

 の『我ら』。

 「お前がだけが悪いんじゃ!!!」
 ではなく
 「我ら」