坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

個人として生きる

2008年04月24日 | 坊主の家計簿
 4月24日

 外食  タンメン        514円
 食類  かにメシ        200円
     焼きゲソ        100円
     冷凍ねぎ2       315円
     冷凍ピラフ2      504円
     ハンバーグ         1円
     メロンパン         1円
     トンカツ        138円
     きゅうりヌカ       99円
     冷凍ちゃんぽん2    398円
     冷凍ぎょうざ2     304円
     ごま油         198円
     トマトジュース       1円
     冷凍中華丼の具     262円
     発泡酒2        214円
     スパイス類4      272円
 雑費  石鹸6         298円

 合計             3825円
 4月累計         121150円

 最近、御仕事が諸々の事情で少しヒマになったのだが、それでも疲れとるのぉ。。。って、夕寝をしてるから睡眠時間は大丈夫なんだが、毎日夜中まで起きてるからや、っちゅうねん。。。
 明日は25日。気がつくと25日。
 やったー!26、27、28と休みなのだ!

 26日。長野での聖火リレー。
 善光寺では当日朝6時半からの朝の勤行時に、チベット暴動の犠牲者に対する追悼法要が行われるらしい。
 http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2008042202005516.html
 行きたい。。。と、思わずネットで検索。
 当日に行くのは無理。高速バスも予約満杯。ホテルも無理みたい。
 終電で行って、朝まで待つのもエエが、長野で朝まで飲める場所があるのかどうか知らんし。
 というか、25日は学習会があるので、やっぱりこういう時でも、こういう時やから、普段一緒に学習している仲間達と一緒に話し合う事が大切か。
 当日の様子はニュースで見よ。

 夕方のワイドショーの特集で光市母子殺害事件の本村さんがインタビューに答えていた。
 何やら藤井誠二曰く本村さんは記者会見以外のマスコミへのインタビューを控えていたらしい。
 理由は


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 【死刑廃止を求める大弁護団が登場して、荒唐無稽ともいえる(少なくともぼくにはそう思える)手法で被告を弁護したことにより、死刑廃止弁護団対本村洋という構図が出来上がってしまい、あたかも死刑推進の代表のように扱われることを拒絶するため。
 
 もう一つは、団長の安田弁護士のところに脅迫が行ったりすることを少しでも避けるためでもある。それは本村さんのせいではないのことは自明なのだが、本村さんは講演などで「ぼくのせいで弁護団に嫌がらせがいったのなら謝りたい」とまで述べておられる。】(『藤井誠二のブログ』(http://ameblo.jp/fujii-seiji/)より

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 であるかららしい。
 やっぱり、誠実な人やのぉ。。。
 で、夕方の関西ローカルのワイドショーを見てたら、犯罪被害者の人間解放みたいな話しにもなっていた。
 なにやら、本村さんは車とかバイクが好きらしい。藤井誠二もフォルクスワーゲンに乗せてもらった事があるそうな。
 また、笑顔はテレビでは出さないが、当然、笑う事もあるだろう。人間なんだし。
 インタビューで本村さんは「もう一度家庭を持ちたい」との事。エエ事や、無茶苦茶エエ事や。

 犯罪被害者は笑っていけないのだろうか?
 本村さんは再婚してはいけないのだろうか?
 何時まで、本村さんは喪に服していなければならないのだろうか?

 本村さんは真面目な方。誠実な方。だから、「裁判が終わってから」みたいな事を云っていたが、それが判決をさすのか、それとも被告の死刑執行が行われてからなのかは解らない。
 私は死刑反対派なので、出来れば、今でもイイ人が居るのなら結婚してもいいのではないかと思う。

 喪に服すとは本来個人的な事柄でしかないはずである。
 だが、日本では『死=穢れ』であり、『喪中には年賀状でなく、喪中ハガキ』であったり、『喪中には結婚式に参加してはいけない』というムードもまだあるのだろう。
 だが、これはかなり弱くなって来ていると感じる。
 
 なのだが、犯罪被害者に関してはどうなのだろうか?
 本村さんは有名人なので、当然、目立つ。注目される。注目されるが故に、世間の眼が厳しい。
 当たり前ながら本村さんには、『犯罪被害者』としてではなく、『本村洋』としての個人がある。個人の人生がある。個人の人生を楽しむ資格がある。当たり前の話しである。
 だが、世間の『喪中』意識がある。何か、人生を楽しんではいけない様なムードがあるらしい。
 イヤな言い方になるが、「あの人は奥さんと子どもを殺されて、よくも再婚なんかできるわね」みたいな意識があるのだろう。あくまでも、苦しんで居るのは犯罪被害者個人であるにも関わらず。
 喪中の意識が、もっとも悪影響を及ぼしているのは犯罪被害者ではないのか?

 多くの人は仏式で葬儀をする。
 仏教に喪中などない。
 近親者を亡くして心を痛めるのは、痛めた本人でしかない。その本人が苦しみから立ち上がろうとしているにも関わらず世間がそれを阻止する。
 「あなたは喪に服しなさい」と。
 誰にそんな権限があるのだろうか?
 世間から与えられるイメージで人を縛って、苦しめてどうするのだろうか?
 『遺族らしく』生きる必要がどこにあるのか?

 善光寺で行われるチベット暴動の犠牲者に対する追悼法要は、チベット側だけではない。中国側の犠牲者も含まれる。
 当たり前である。チベット側だけの被害者しか追悼しなければ、日本の仏教界は先の戦争における戦争協力に対して何ら反省をして来なかった事になる。中国側も含まれるが故に、善光寺での追悼法要は素晴らしい。
 
 真宗仏教は、出家ではない。
 だからといって、在家でもない。
 あくまでも仏弟子でしかない。『出家』『在家』という範疇には入らない。
 出家でないからといって、決して娑婆世間にベッタリではない。つまり、『チベット側』『中国側』のどちらかに付くと云う事はあり得ない。
 チベットが仏教国であるからチベット側に付くのなら、チベット側がする暴力には眼をつむらなければならない。
 それは逆に云うのなら、ネット上で少し騒がれているらしいが、いわゆる『左派』が中国側に付く事によって中国を批判出来ないのと同じである。

 今日のタイトルを『個人として生きる』と決定。
 悪いが、私は本村さんではないし、本村さんは好きだが、本村さん側には立てない。
 チベット側にも、中国側にも立てない。

 怨親平等という仏教用語がある。
 『怨む』『親しい』も『平等』。
 一人一人の個人。誰にも代えられない、大切な個人。

 喪中は、個人の意志を奪う。
 犯罪被害者の自由意志を奪う。

 本村さんの側に立てないのは私が仏教徒であるから。専門職の僧侶である。
 本村さんが『犯罪被害者』として世間の眼から苦しめられている喪中意識を私は再生産している。
 仏教にはないはずの『喪』意識を。
 「喪に服せ!」等とは言った事がないが、『喪中』の歴史、葬儀を執行する側としての責任回避をしていた。個人としての責任回避をしていた。
 本村さんに謝れるすべはないのだが、悪かった、としか言いようがない。

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