坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『キャラ化する社会について』

2008年04月03日 | 坊主の家計簿
 4月3日

 先に3月〆

 一般会計             118385円
 奨学金カンパ            10000円
 携帯電話               2788円
 ネット代               2730円
 ユニクロ通販            10970円
 医療保険               4740円
 家賃                32430円
 電気代(2月分)           5161円
 ガス代(3月分)           3699円
 国民健康保険            26800円

 合計               217703円
 これに一括払いの年金の月割り13804円を仮にプラスするなら
                  231507円

 なんちゅうんですか?ゴージャスなわけでもなく、特に貧乏というわけでもなく。。。っちゅう数字やのぉ。。。個人的にはちょっと使い過ぎかな?っちゅう気もするが、まあ、諸々使わんとアカン事もあるし、しゃーない。

 
 4月3日
 
 外食  昼飯          326円
     晩飯          694円
 雑費  スーパー銭湯      600円

 合計             1620円
 4月累計           7356円

 仕事が終わって晩飯喰ってスーパー銭湯へ。まったり、ほっこり。
 足の角質も軽石で取りまくってエエ感じ。
 角質を取りながら思ったのだが、私の右足と左足の角質の付き方が全然違う。右足の方が圧倒的に固く分厚い。なので毎度なんだが、右足の角質を取るのに一苦労なのだ。まあ、毎日取ってたらエエのかも知らんが、そんな気にはならんし。
 同じ私の足なんだから両足共同じぐらいになる『はず』と思いたいのだが、やっぱり違うねんね。

 マナカナ。結構、隠れファン。別に追っかけて見る気はないのだが、テレビにマナカナが出てるとなんとなく幸せな気分になる。
 私にマナカナの区別はつかないのだが、マナカナが行ってた高校時代の恩師は区別が付くらしい。何やら、性格も違うらしい。一卵性双生児でもやっぱり違うねんね。

 昨夜、ボンヤリと東京カワイイTVというのを見てた。変態スケベで有名な沢村一樹も出てたし、番組として面白かったのでついつい最後まで見てしまった。
 まあ、ファッション番組に入るのかな?結構、経済番組ぽくもあり、「ニッポンバンザイ!」的な要素もあり、まあ、何じゃかんじゃで面白かったのだが。
 番組を見つつ、「そこまでして個性的になりたいか?」と、ふと思う。
 当然、なりたきゃなったらエエのだが、元々、人間なんぞ個性的でっせ。個性的にならなくとも個性的でっせ。

 「みんなと一緒じゃイヤ!」
 って、だから元々個性的なんや、っちゅうねん。私の左右の足の角質層も個性的なら、マナカナでも違うねんぞ。何一つ同じものなんぞない。
 『個性的にならなくてはならない』という強迫観念か?まあ、それも個性的ではあるのだろうが、別に無理から個性的にならなくとも元々個性的でっせ。

 「みんなと一緒じゃイヤ!」
 とは、特別な存在になりたいのかな?
 特別な存在。注目を浴びて、世間のスポットライトを浴びる。世間のスポットライトを浴びる為には世間に迎合しないといけない。世間にウケる、世間にウケないと世間からは注目されないし。
 本来兼ね備えている『個性』でなく、世間に迎合した『個性』。
 「みんなと一緒じゃイヤ!」という個性。特別な存在という差別化。

 マナカナのマナの方の関西学院大学での卒業論文は『キャラ化する社会について』らしい。読みたい。。。どういう内容なのか解らないが面白そうなテーマだ。

 「みんなと一緒じゃイヤ!」
 の『みんな』とは、勝手に想像するのだが、『目立たない人達』なのかな?昔用語なら『大衆』とかか?
 「大衆と一緒じゃイヤ!」と、キャラ化された個性。

 マナカナでも個性は違う。当たり前だ、私には区別はつかないが、別人格だし。
 だが、マナカナの事をよく知らない私には同じに見えてしまう。
 『見えてしまう』のは見る側の責任であり、決して『見られる側』の責任ではない。『マナカナ』と呼んでいるが、『マナ』と『カナ』である。別人格である。
 
 『見られる側』が、『見る側』に、つまり世間に対してアピールする。
 アピールをするべき事は「私はマナとちゃうし、気をつけてね」なら解るが、マナカナの2人が『見る側』に対して、例えば「これからは黒の服装がマナで、白の服装がカナで統一します。これで間違わないでしょ」とは違うと思う。まあ、『見る側』にとっては解りやすくなるが、『見られる側』は、『見る側』に合わせる必要はないし。
 『見る側』、つまり世間にとってはそっちの方が都合がエエのだが、それはマナカナの個性、人格、人権を世間に迎合さす事になる。
 『見られる側』つまり、一人一人の個人を無視するのは絶対に違うと思う。

 私はよく冗談で「大阪で神といえば天皇でなく八木である」というが、当然冗談である。
 『大阪人』等居ないし。『関西人』も居ない。居るのは、たまたま大阪で生まれ育っただけの1人の人間であり、たまたま関西で生まれ育った1人の人間でしかない。
 『大阪人』『関西人』としての性格なんぞあり得ない。一人一人が違うわけだし。
 同じく、それぞれの県民性等もあり得ない。共通の文化を持ち得るだろうが、当然、違う方々も多く居られる。
 『男』という人格も、『女』という人格もあり得ない。性別と人格は違う、人格は一人一人が違う。
 『日本人』も同じである。同じ日本に生まれ育ったにしても、それぞれが違う。日本に生まれ育ったからといって、例えば日本文化よりも欧米文化の方が好きでも構わないし、インド文化の方が好きでも全く構わない。当たり前である。それぞれなんだし。
 
 元々、それぞれがそれぞれの個性を持っている。だから別に「みんなと一緒じゃイヤ!」という必要はない。
 『見られる側』が『見る側』に迎合する必要は全くない。
 
 なんだが、そこにあるのは世間に対する怖れ。世間から無視される怖れ。だから「みんなと一緒じゃイヤ!」と、目立とうとする。『特別な存在』になろうとする。
 世間に迎合する。世間に魂を売り渡す。

 個性。元から兼ね備えたもの。一人一人の大切な人格。
 『無名の人』『大衆』というレッテルであっても、その内容は一人一人。
 とても、とても、とても、とても大切な、一人一人。
 今、生きているという現実は、当たり前ながら『世間』なんぞよりも遥かに尊い。現実なんだし。