坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

花祭り

2008年04月08日 | 坊主の家計簿
 4月8日

 外食  ラーメンライス       650円
 食類  鯖高菜巻き寿司       200円
     牛焼肉           299円
     カットパイン        100円
     たくわん          100円

 合計               1349円
 4月累計            23560円

 リンク: <聖火リレー>車椅子の中国女性走者に襲いかかる!毅然とトーチ守り賞賛の嵐!?パリ - 速報 ニュース:@nifty.

 変わらず聖火リレーの話題が大きく取り扱われている。
 昨日も書いたが、中国共産党が『聖火』等という宗教色以外の何ものでもないものを必死に守ろうとする姿が滑稽なのだが。それぐらいの意志でもってチベット仏教を守ってやれよな。
 
 &、中国がオリンピックとかやらを一つの契機として経済大国への道を進むのであれば、チベットなんぞはエエ観光収入になるのではないのか?特に『ダライ・ラマ』という存在は、欧米人にとって、あるいは日本人にとってもなんだろうが、もの凄く経済的価値がある。ダライ・ラマが中国に帰り、ラサに居たら、ラサは今よりも遥かに観光スポットになるのではないのか?
 
 また、今回の一連の騒動でもダライ・ラマは当然『穏健派』である。当たり前だ、僧侶なんだし。まあ、暴れ回る僧侶も居るだろうが、そんなもんは修行が足らんだけの話しであって、僧侶が穏健派でないわけがない。今回の騒動でも、ダライ・ラマの写真を飾りつつも、つまり、ダライ・ラマを利用しつつも、みずからの政治的立場で動いて居る人達が多くいると思うのだが、そういう人達を一応押さえる事が出来るのもダライ・ラマなんだろうし。まあ、今でも云う事を聞かない人達が多くいるみたいだが、『ダライ・ラマ』という大義名分を失うわけだし。
 
 『ダライ・ラマ』は、戦前の天皇でも思い出せばエエのではないかと思うのだが。決して日本人全てが天皇を尊敬していたわけではあり得ないわけだし。幕末でも『尊皇』という大義名分でも、都合の悪い天皇は暗殺するようなもんでっせ。多分、人間はどこでもたいして変わらんぞ。
 ダライ・ラマをラサに戻しても、ダライ・ラマは中国からの独立を叫び続けると云う事はあり得ないと思うのだが。理由は単純で、独立戦争で多くの人の血が流れるから。
 信仰の自由を認め、ダライ・ラマという観光名物を手に入れればエエのではないのか?
 ダライ・ラマがダライ・ラマである以上、ダライ・ラマが仏教僧である以上、独立運動で多くの血が流れる事を認めるとは思えん。

 聖火リレー。まあ、当然の事、中国政府に対する批判の声が多々ある。
 上記リンクは端的だが、それ以外に昨日観ていた映像でもかなり酷いのがあった。だいたい、聖火とかいうのを無理矢理奪おうとするのは一体なんなんだ?チベットの人達から信仰の自由を奪おうとする中共か?
 そんな反対運動を支援する、つまり、中国政府を敵にするのが平和行動とは1ミリとも思わん。
 今回のオリンピックが血塗られたオリンピックであるのなら、その血の上塗りを反対運動で塗りたくっているだけの話しでしかない。
 当然、オリンピックが平和の象徴とも全く思わない。今回の騒動は当然中国政府が発端だったのだろうが、過激な反対運動は中国側の工作ではない。『人権』とか『平和』とかが好きな人たちが起した過激な血塗られた行動でしかない。
 同じ仏教徒として、ダライ・ラマが喜んでいるとは全く思えない。今回の騒動をダライ・ラマが喜んでいるのであれば、それは単にダライ・ラマが仏教徒である事を捨てただけの話しだろう。政治家になってしまっただけの話しだろう。

 今日は花祭り。お釈迦様の誕生日。

 『敵』とか『味方』とかいう釈尊の話しなんぞ聞いた事がないのだが。対立を煽り立てる釈尊の言葉なんぞ聞いた事がないのだが。

 何やらダライ・ラマは「チベットで暴力が続くなら退位する」と云ったらしい(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/china/130889/より)。
 また、今回の聖火リレーでのトラブルに関して、「すべてのチベット人は、オリンピックを妨害する行為はするべきではない」(http://www.asahi.com/international/update/0406/TKY200804060131.htmlより)と云ったらしい。
 当たり前である。ダライ・ラマは、仏教徒なのだから。
 まあ、大真面目な話し、ダライ・ラマが過激なチベット人から暗殺されない事を祈る。

 仏教は非暴力である(はず)。
 非暴力といっても、直接的な解りやすい暴力だけでなく、当然『暴力的』な事も入ると思う。
 単純な話しである。暴力的な事も煩悩にしか過ぎないし。
 『敵』『味方』は縁起の道理に反する。だから、どちら側にもつかないわけだし。どちら側にもつくし、どちら側にもつかない。『敵』『味方』が関係ないのだし。

 世自在王仏という仏さんが居てる。まあ、法蔵菩薩(阿弥陀さんの以前の名前)のお師匠さん。
 ある先輩からこの『世自在王仏』とは、「この世の誰とでも友達になれる人」と聞いた。
 違う先輩は云う。「親鸞はどんな人とでも付き合った。それが都合の悪い人も居る。」と。そりゃそうだ。戦争中に『敵』と友達ならスパイ容疑だし。
 今でも、云うんじゃないかな?「お前はどっちの味方やねん」とかって。
 敵も味方もない。
 天上天下唯我独尊でっせ。