坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

セーム・シュルト対ダライ・ラマ

2008年04月13日 | 坊主の家計簿
 4月13日

 食類  豚バラ       271円
     めんたいこ     170円
     水菜        128円
     たまねぎ      115円

 合計            684円
 4月累計        54414円

 セーム・シュルトはやっぱり強いのぉ。。。マーク・ハントのパンチなら「当ったら面白い」と思って見てたんだが、やっぱり圧勝やったのぉ。。。しかも、マーク・ハントがKOか。トラックに跳ねられても大丈夫やったマーク・ハントがKOか。セーム・シュルトは無茶苦茶やのぉ。。。しばらくは負けへんな、こりゃ。
 と云う事で、セーム・シュルトはルールを変えてダライ・ラマと対戦するのは如何であろうか?
 『念仏は自我との格闘技だ』と恩師は云ってたが、まあ、自我との格闘技は念仏だけじゃなく、仏教全般やし。ダライ・ラマは結構強そうやぞ。自我との格闘技ならセーム・シュルトも危ないかも知れん。まあ、セーム・シュルトも空手家なのでかなり強そうだが。今日も「押忍」と云ってたし。

 人権派の人権無視とは良くある事である。まあ、自分を問題にせず社会問題にだけ関心が行ってたらそうなるわな。
 その部分でも今回の聖火リレーは解りやすい。
 人権無視の中国政府に対する抗議をする人権派が、『聖火ランナー』という一個人の人権を無視する行動をとり、暴力的抗議をする。まあ、要するに『人権』を使った単なる暴力行為にしか過ぎない。きっと御自分達は人権と闘う正義の味方であり、正義の味方という特権から何をやっても構わないと判断なされているのだろう。
 当然、ダライ・ラマはそれに対しても抗議する。当たり前である。ダライ・ラマは仏教徒であり、非暴力の立場だからだ。

 『非暴力の立場』と云うのは、当然、中国側でも、チベット側でもない。あくまでも『非暴力の立場』なのだ。非暴力の立場であるが故に、暴力をする側に対して抗議をする。当たり前の話しである。
 だが、まあ、今回の聖火リレーでも解りやすく出ているが、チベット側に立場を置くが故に、チベット側からの暴力的抗議に対しては沈黙する。沈黙する、もしくは容認する人も居るであろう。
 俗世間のみの発想なら、中国側、もしくはチベット側である。
 弱者との連帯が好きならチベット側に立場を置き、チベット側の暴力的抗議には沈黙する。
 
 詳しく知らんのだが、フランスや、サンフランシスコは人権問題に関心が深い人達が多くいるらしい。
 まあ、暴力的抗議をしたのは、ごく一部なんだろうが、暴力的抗議を容認するような人権意識は、単なる特権意識でしかない。
 暴力は人権無視である。当たり前の話しなんだが、その事を『弱者の側』というフィルターが判断を鈍らしているに違いない。あるいは、確信犯か。
 今回の聖火リレーに対して暴力的抗議をした人は、ひょっとして英雄気分なんだろうか?それとも、みずからの暴力的行為、人権無視に対して反省しておられるのだろうか?

 よく学生運動をやられていた方々と話す機会があるのだが、これも同じ事。
 いまだにゲバ棒を持ち警官や機動隊に働いた暴力を自慢する人もいるのだろう。
 単なる暴力で、人権無視の行為を
 「やられたら、やりかえせ」の論理や、『弱者の側』あるいは、『社会正義』の名の下での暴力行為は許されていると思われている人達も多々いるのであろう。
 当然の如く、それは非暴力の立場ではない。あくまでも暴力の立場である。人権無視の立場でしかない。
 
 『弱者の側』というが、今回の聖火リレーが象徴的だが、そんなものは相対的でしかない。
 暴力をふるわれた側が『弱者』なのだ。
 『弱者』は暴力をふるった瞬間に『強者』になる。それを認める、つまり、弱者側に特権を与える思想は怖くて仕方がない。

 一向一揆は『聖戦』であった。見事なまでの『やられたら、やりかえせ』の論理。『聖戦』という名の戦争でしかなかった。よって、多くの人達に暴力をふるい、殺した。
 殺された、例えば信長側の足軽も同じ人間である。同じ人間にも関わらず、殺した。最新ハイテク兵器だった鉄砲を散々抱えて。
 世界の仏教史上でも、まあ、一向一揆程、つまり、本願寺教団程、人を殺した教団はないのではないのか?詳しく知らんが。多く殺されたかもしれんが、多く殺した。
 当たり前の如く、決して栄光の歴史であるわけがない。
 世俗の論理でなら『栄光の歴史』なのかも知らんが、仏教教団である。暴力行為を褒め讃える仏教教団、仏教徒なんぞは如何なものなんだろうか?
 罪は、罪である。罪は罪でしかあり得ない。故に、『罪悪深重』等と云うわけだし。
 すなわち、非暴力の立場とは、如何なる暴力であろうとも、罪を感じる立場なんだろうし。問題にする、課題にしていく立場なんだろうし。
 
 その辺が、今回の聖火リレーで見事に表現されていると思うのだが。
 非暴力の立場である仏教徒ダライ・ラマは当然の如く、チベット人の暴力行為を許さずに非暴力をチベット人に対してもアピールする。
 人権派かなんか知らんが、暴力的行動でもって抗議する事を容認する人達もいる。
 この辺が、大きな『かわりめ』だと思うのだが。

 罪は罪である。罪は罪でしかない。
 ただ、問題は、罪を罪として感じようとするかどうかだけだと思うのだが。

 犯罪被害者にも当然人権はある。当たり前の話しである。
 だが、犯罪被害者、つまり人権を奪われた側にだけ立ち、その側から犯罪加害者を裁く。
 「やられたら、やりかえせ」
 である。そういう声が多々あるのか、死刑制度に対する容認も多い。
 「殺せ!殺せ!」の大合唱。

 正義の側などない。
 罪を感じる側なのだ。
 罪を感じ、罪を哀しみ、故に、罪の再生産はしたくない。
 『でも、こういう事件はこれで最後にしてもらいたい』
 である。

 何かの『側』に立つ。側に居る人が酷いめに合わされたら当然キレる。ん?キレるのは私だけかも知らんが、まあ、腹が立つだろう。
 自分がやられても同じ。私はかなりキレやすい。
 故に『許せない』。
 同じ、人間を、同じく『今』を生きてる人間を。

【「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には怨みはついに息むことがない。
 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。
 「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーーーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。】 (ダンマパダより)