坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

あ、変。

2008年04月17日 | 坊主の家計簿
 4月17日

 外食  トンカツ定食(昨日)   600円
 食類  唐揚げ弁当        290円
     ボストンレタス      128円
     豆腐           138円
     つくね           65円
     タマゴ          168円
     ハラミ          340円
 
 合計              1729円
 4月累計           72331円

 大阪府の橋下知事が泣いたらしい。。。
 というローカルニュースを全国区でもやってたからちょっとビックリ。
 ちなみに私は橋下知事には投票していない。っちゅうか、完璧に「橋下落とせ!」だったのだが、まあ、当選すりゃ知事だし、まあ、破産管財人知事としてはエエと思うし、評価する。
 のだが、泣いたらアカンやろ、泣いたら。
 橋下知事は私よりも若く、多分、今日泣かされた(?)相手の市長さん達は年上だろう。構造的にはベテランかどうか知らんが、若い知事に、古手の市長が反対して若者が泣く。だから、なんとなく『若手改革派』対『古手保守派』みたいな構造にも見えたりするのだが、単なる意見の相違だけの話しである。橋下知事のやりたい事が通じなかっただけの話しである。
 やりたい事が通じなかったからといって泣くのはガキやろ。古手の市長さんが、「泣かれたら話しが出来ない。泣きたいのはこっちや」と云ってたが、共感する。今日は、橋下知事に分が悪いと私は思う。んが、まあ、仕切り直してやってくれ。

 なんとなく『正義の味方』を思い出す。ほら、漫画とかのヒーローが、悪役に立ち向かって挫折する時に泣いたりしますやん。あれを思い出す。
 けど、40を前にして、そういう『悪役』なんぞ居ないと云う事がよく解るし。単なる漫画なら作者の幻想の中に、私なら私の幻想の中にしか『悪役』なんぞいない。幻想の中だから『悪役』がいる。
 
 そんなもん単純な話しであって、私は夜回り先生からすると見事に『悪役』だろうし。健全な青少年を非行の道に進ませる『悪役』だろうし。
 『過激派』『暴力学生』と呼ばれた人達もある人達の側から見れば『正義の味方』なのかも知らんが、反対側から見れば『悪役』である。
 正義の味方も、悪役も、幻想の中にしかない。
 その幻想から見れば、どちら側、まあ、右派でも左派でも、なんだろうが、単に都合の悪い存在でしかない。自分(達)にとって都合がイイ、都合が悪いだけで所詮判断して、幻想の中で『正義の味方』『悪役』でしかない。
 幻想であるが故に、人にレッテルを貼る、人を色眼鏡でしか見れないわけだし、当然、私も同じである。所詮、そんなものでしかない。

 「イラクで行われている空輸活動は、憲法9条に違反する活動を含んでいる」(http://www.asahi.com/national/update/0417/NGY200804170010.htmlより)という判決が出た。あまり影響力があるとは思えないが、それでも画期的な判決である。

 「やられたら、やりかえせ!」と反射的に私は思ってしまう。
 また、『悪役』も作り出してしまう幻想(妄想)の色眼鏡で私は物事を判断している。
 人権派が北京オリンピックの聖火リレーへの抗議行動の中で暴力的行動もしている。それを容認する声もある。
 そういうものなんだ。所詮、人間っちゅうもんは。
 自分(達)の都合でもって、冷静になれない。
 自分(達)の都合が特に心優しき人なら『犯罪被害者』の側に立ち、罪を裁く側に立ち、『悪役』にしてしまう。加害者を同じ人間であると思えない状況下にすぐに陥る。
 相手が『悪役』だから、暴力を肯定化出来る。死刑は暴力ではなくなる。暴力をふるった人(悪役)には、暴力でもって報復しても構わない事になる。それに対して異議の声を出す人は、『反革命分子』になる。戦前の日本なら『非国民』になる。それは今でもなんら変わらない。変わりようがない。人間がする行為だから。
 
 報道ステーションやったかな?アメリカの銃社会の特集をやってた。
 大学で友人(?)が殺された人が、大学内での銃所持を認めさす運動をやってた。かなり辛い思いをなされたのだと思う。

 「やられたら、やりかえせ!」
 の時に、やりかえす道具がなければやりかえす事は出来ない。
 『核には核を』でも、核がなければ無理である。
 銃がなければ銃で撃ち返す事は出来ない。

 先の日本の戦争は聖戦であったのかも知れない。きっと、当時の様々な人達が、様々な事を考え、判断し、『聖戦』という戦争をしたのだろう。人殺しをしたのだろう。
 そんな時に憲法9条があればそれがネックになる。
 「やられたら、やりかえせ!」が出来ない。

 『悪役』はあくまでも幻想の中にしか存在しない。実際にいるのは、立場の違う、つまり、人生の違う人がいるだけ。他者がいるだけ。
 『悪役』は鬼ではない。鬼畜米英ではない。鬼畜米英は幻想であった。幻想でしかなかった。

 中国政府。中国政府は決して悪役でもなければ鬼でもない。中国政府の要人も同じである。同じ人間である。同じ人間でしかあり得ない。
 中国政府にとってチベット人は『解放されなければならない人』なのかも知れないが、そんな人等、中国政府の人達の中に幻想としてしか存在していない。

 宗教はアヘンである。
 同じく中華思想も、共産思想もアヘンであり、人権思想もアヘンである。
 みんなアヘン中毒として平等ではないのか?
 だから、アヘン中毒としての自覚が必要ではないのか?
 アヘン中毒であるが故に、そこに事実存在している他者が『悪』に見え、『解放されなければならない人』に見えるだけの話しではないのか?そう見えるのがアヘン中毒である証明ではないのか?

 聖戦だろうが、文化大革命だろうが、テロとの戦いだろうが、死刑だろうが、殺すのは人。
 殺されるのは人。
 そんな権限、誰も持ち得ているわけがない。
 特権階級なんぞ、幻想でしかない。幻想を信じなければならない理由は一切ない。