11月28日
外食 回転寿司 735円
食類 餃子 110円
絹揚げ 98円
洗濯洗剤 298円
アクティブ・ダイエット8 760円
雑費 レンタル2 210円
合計 2211円
11月累計 80060円
時代劇の気分だったので、時代劇をレンタル。
『壬生義士伝』
『四十七人の刺客』
『四十七人の刺客』は凄いぞぉ。単なる高倉健のアイドル映画やぞ。それ以外に全く意味のない映画やぞ。ギャラの高そうな役者さんを沢山使ってもペイ出来る計算が高倉健では成り立つみたいやぞ。
『壬生義士伝』は二度目。変わらず名作。
と、ダラダラと。
11月28日は大谷派の本山報恩講。
ちなみに我が母校専修学院でも毎月28日は親鸞聖人の命日なので精進料理の日。よって、メニューを考えるのも大変で、朝はチーズオムレツ、昼はペペロンチーノ、夜は野菜カレーと、それは質素な、質素な精進料理で(笑)
うちから京都までは約2時間。電車賃は片道1000円くらい。なので、今日も行こうと思えば行けたのだが、別に行く気もならん。夕方から高倉会館で廣瀬先生の法話があったので聞きに行きたかったのだが、御通夜やったし。休みやったんだが、御仕事、御仕事。
京都はタマに行く。その殆どは東本願寺前での用事。だから、ほぼ東本願寺には入らない。別に嫌ってるわけではなく、用事がないし。用事がないから行かないだけの話。当然、用事がある時には行く。
多分、今日が一日中休みでも、きっと京都に出かけたのは夕方だったと思う。廣瀬先生の法話時間に合わせて、その前に仏教書専門本屋に行くくらいだったと思う。
本尊はどこにでもあるし、本山が特別でもない。
納骨等で本山に行く人がいたら、必ず「法話を聞いて来て下さいね。地下の核シェルターみたいな所でもやってますし、本山前でもやってますから、職員を捕まえて「法話が聞けるのはどこや」と尋ねて下さいね。」と言ってる。
これが私の本山に対する意識だと思う。
というか、寺に対する意識だと思う。
だから、行っても意味のない寺は潰れて行くと思う。
「何を云う。意味で苦しんで居る私たちを気づかしてくれるのが寺だ!」
と云うのなら、それは掲示板なりでアピールするなり、寺内に入って法話でもって意味ある場所にすればイイだけの話だ。宗教教団の理屈に従わないといけないのは、その教えを信仰している人だけやし。
親の権威が崩壊しつつある中で、親や先祖に対しての恩があっても、それは仏教とは直接結びつかない。
「親に対する恩はある。だから葬儀はするが、別に坊主は要らん」
っちゅうのが多くなってるし、ますます多くなる。親戚のオジさんオバさんや、長老等も、田舎ではイザ知らず、都市部には関係のない話やし。
田舎では、都市部に比べて数十年遅くそういう時代が来るのだろうが、都市部では始まりつつある。
「だから都市部はダメなんだ!」と云うのなら、それは老いた証しだろう。
単純に寺が、教団が、世間から問われているだけの話なんだし。
何を売り物にしている場所なのか、何を伝えようとしている場所なのかが全く解らない皇居のような空白地域を崇め奉らなければならない必要性なんぞ全くないし。
だからといって、ボランティア活動や、社会運動で権威つけるのも違うと思う。
私がよく遊びに行く寺の住職には共通点がある。共に寺を開いている。その寺に行き易い環境を整えている。共に社会運動にも熱心だが、多分、いわゆる左翼の社会運動とは違うと思う。出会いを求めているのだと思う。だから、寺を開き、『外部(あえて)』の声を聞き、自分が問われる場に居てるのだと思う。
某長老が云ってたが、寺を開くとややこしい。なんせ誰が来るか全く解らんし。来るのが『門徒』だけとは限らん。だから楽しい。色々な人が来るから楽しい。
近所の人から、運動家から、登校拒否や、ニートや、色々集まるから楽しい。猥雑な『場』である。それが真宗寺院だと思う。
閉鎖された田舎ではない。都市なのだ。真宗寺院は。だから山から下りた。
そして真宗寺院は都市であると同時に田舎でもある。いや、『田舎』と云う言葉はおかしいな。故郷である。閉鎖された田舎ではなく故郷である。
いわゆる『自然』は人間に何も云わない。だから人は自然が好きなのだ。疲れた人間は故に自然に行きたがる。
自然は「それは違う」とは云わないし。
でも、違う個性を持っているのだから、「それは違う」というのは『自然』なんだが。
エゴの自己同一性を求めたいのなら田舎の自然に行けばイイ。御先祖と云う血統信仰の菩提寺に行けばイイ。
真宗寺院、いや、真宗道場は自己を問う教えの場、サンガの場である。
本山は根本道場である。
外食 回転寿司 735円
食類 餃子 110円
絹揚げ 98円
洗濯洗剤 298円
アクティブ・ダイエット8 760円
雑費 レンタル2 210円
合計 2211円
11月累計 80060円
時代劇の気分だったので、時代劇をレンタル。
『壬生義士伝』
『四十七人の刺客』
『四十七人の刺客』は凄いぞぉ。単なる高倉健のアイドル映画やぞ。それ以外に全く意味のない映画やぞ。ギャラの高そうな役者さんを沢山使ってもペイ出来る計算が高倉健では成り立つみたいやぞ。
『壬生義士伝』は二度目。変わらず名作。
と、ダラダラと。
11月28日は大谷派の本山報恩講。
ちなみに我が母校専修学院でも毎月28日は親鸞聖人の命日なので精進料理の日。よって、メニューを考えるのも大変で、朝はチーズオムレツ、昼はペペロンチーノ、夜は野菜カレーと、それは質素な、質素な精進料理で(笑)
うちから京都までは約2時間。電車賃は片道1000円くらい。なので、今日も行こうと思えば行けたのだが、別に行く気もならん。夕方から高倉会館で廣瀬先生の法話があったので聞きに行きたかったのだが、御通夜やったし。休みやったんだが、御仕事、御仕事。
京都はタマに行く。その殆どは東本願寺前での用事。だから、ほぼ東本願寺には入らない。別に嫌ってるわけではなく、用事がないし。用事がないから行かないだけの話。当然、用事がある時には行く。
多分、今日が一日中休みでも、きっと京都に出かけたのは夕方だったと思う。廣瀬先生の法話時間に合わせて、その前に仏教書専門本屋に行くくらいだったと思う。
本尊はどこにでもあるし、本山が特別でもない。
納骨等で本山に行く人がいたら、必ず「法話を聞いて来て下さいね。地下の核シェルターみたいな所でもやってますし、本山前でもやってますから、職員を捕まえて「法話が聞けるのはどこや」と尋ねて下さいね。」と言ってる。
これが私の本山に対する意識だと思う。
というか、寺に対する意識だと思う。
だから、行っても意味のない寺は潰れて行くと思う。
「何を云う。意味で苦しんで居る私たちを気づかしてくれるのが寺だ!」
と云うのなら、それは掲示板なりでアピールするなり、寺内に入って法話でもって意味ある場所にすればイイだけの話だ。宗教教団の理屈に従わないといけないのは、その教えを信仰している人だけやし。
親の権威が崩壊しつつある中で、親や先祖に対しての恩があっても、それは仏教とは直接結びつかない。
「親に対する恩はある。だから葬儀はするが、別に坊主は要らん」
っちゅうのが多くなってるし、ますます多くなる。親戚のオジさんオバさんや、長老等も、田舎ではイザ知らず、都市部には関係のない話やし。
田舎では、都市部に比べて数十年遅くそういう時代が来るのだろうが、都市部では始まりつつある。
「だから都市部はダメなんだ!」と云うのなら、それは老いた証しだろう。
単純に寺が、教団が、世間から問われているだけの話なんだし。
何を売り物にしている場所なのか、何を伝えようとしている場所なのかが全く解らない皇居のような空白地域を崇め奉らなければならない必要性なんぞ全くないし。
だからといって、ボランティア活動や、社会運動で権威つけるのも違うと思う。
私がよく遊びに行く寺の住職には共通点がある。共に寺を開いている。その寺に行き易い環境を整えている。共に社会運動にも熱心だが、多分、いわゆる左翼の社会運動とは違うと思う。出会いを求めているのだと思う。だから、寺を開き、『外部(あえて)』の声を聞き、自分が問われる場に居てるのだと思う。
某長老が云ってたが、寺を開くとややこしい。なんせ誰が来るか全く解らんし。来るのが『門徒』だけとは限らん。だから楽しい。色々な人が来るから楽しい。
近所の人から、運動家から、登校拒否や、ニートや、色々集まるから楽しい。猥雑な『場』である。それが真宗寺院だと思う。
閉鎖された田舎ではない。都市なのだ。真宗寺院は。だから山から下りた。
そして真宗寺院は都市であると同時に田舎でもある。いや、『田舎』と云う言葉はおかしいな。故郷である。閉鎖された田舎ではなく故郷である。
いわゆる『自然』は人間に何も云わない。だから人は自然が好きなのだ。疲れた人間は故に自然に行きたがる。
自然は「それは違う」とは云わないし。
でも、違う個性を持っているのだから、「それは違う」というのは『自然』なんだが。
エゴの自己同一性を求めたいのなら田舎の自然に行けばイイ。御先祖と云う血統信仰の菩提寺に行けばイイ。
真宗寺院、いや、真宗道場は自己を問う教えの場、サンガの場である。
本山は根本道場である。