11月25日
外食 かき揚げ蕎麦 326円
雑費 無添加ワイン 438円
脱脂綿 198円
液体歯磨き 598円
歯間ブラシ 398円
カルシウム錠 660円
JR 160円
南海 320円
合計 3098円
11月累計 62884円
右下親知らずが虫歯になった。別に痛みはないのだが、虫歯の味がしてイヤ。&放っておいて痛みだすと腫れが引くまで抜歯出来ないし、早めに歯医者行かんとアカンな。
んが、もう少し行けないので諸々薬局でお買い物。
所属寺での学習会。今日は無我相経を中心に。
当然、基本を押さえつつ学習するのだが、会場が真宗寺院だし、私も真宗門徒なので、多分、スタンダードな原始仏教とは違った感じでしか学べない。
釈尊最初の弟子達。大真面目に熱心に苦行をしていた人達。だからこそ、
【「比丘たちよ、色は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、色は病にかかることはないし、また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。しかし比丘たちよ、実に色は無我であるから色は病にかかり、また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。】(無我相経より)
という言葉が飛び込んで来たのだと思う。『教えの言葉』=『道理』として、飛び込んで来たのだと思う。
思うように生きたい。当たり前だ。思うように生き、自分や世界を支配したい。当たり前だ。
そうやって、苦の再生産を続けているが故に釈尊の言葉が『教えの言葉』として、問われる言葉をして、私を照らす言葉として飛び込んで来るのだ。
『一切皆苦』と云う言葉。すべては思い通りにならん、っちゅう言葉。
だが、日頃の生活は、全て『思い通り』にしようとしている。だから、『一切皆苦』と云う言葉が輝く。頭が下がる。
執着しているが故に、教えの言葉が、信仰の言葉が、他の誰でもなく『私』に必要となってくる。
『誰かの為』ではない、『私』の為に必要となって来る。
僧侶になる、サンガの構成員になる事は『あがり』ではない。『始まり』であり、永遠に『始まり』である。それが、『仏』の『弟子』である事。
私を抜きにした『教え』は絵に描いた餅。だから『論理だけ』になる。論理は必要だが、論理だけなら、教えは他人事である。
今日は25日。法然上人の命日。
法然滅後に残された弟子達の念仏講。自分達を弾圧した人達の為の念仏。しかし、その場に弾圧した人達は居ない。
敵にしない。怨むによって怨み返す事をしない。弾圧した人達を間化しない。自分達と別存在にしない。
当然、怨んだであろう。怒ったであろう。だからといって相手を間化しない。してしまいそうになるが故に念仏申す。
同じ人間として、同じ尊敬される存在として。
間化扱いされても、いや、されたが故に、だからこそ、間化しない。
「あんなヤツ等」「敵」等々。そういう風に感じてしまうが故に、『一切衆生と共に』と云う言葉が教えの言葉になる。他の誰でもなく、個人の教えの言葉になる。信仰の言葉になる。
それは、例えば政治等の世間では弱いかも知れない。敵にする。抵抗勢力、保守勢力等とレッテルを張って『敵』にした方が世間の意見としては強い。思いを適えるだけでイイのなら。しかし、それは所詮、思いを適えるだけの話である。
敵など居ない。意見と立場が違うだけの話である。
それが、意見と立場を認められなかった者の論理である。敵とされた鬼の論理である。鬼の生きる道である。
当然、鬼など居ない。ただの人である。
意見と立場を認めらないから、敵にしてしまう同じ人間である。
鬼とされた辛さがあるから、この辛さをやり返すのでなく、この辛さを味合わせたくないと。「この鬼が!」と、言ってしまう事に慚愧する。
「鬼ではない。同じ人間だ!」とは批判しても、相手を鬼にしてしまう事は、違う。
天皇も人間である。
そして天皇と同じ人間である宇都宮まきちゃんが、なんと週刊プレイボーイでグラビアデビューしてしまうらしい。
さっき録画してた『マルコポロリ!』を観て知ったのだが、これは大変である。まきちゃんが全国的人気になるかも知れない。しかもグラビアといっても『あずき色のジャージを着て、押し入れでパンの耳を食べている』『小さいスクール水着を着て沢山の御飯を食べている』という、貧乏&大食いキャラ全開のグラビアらしい。
発売日は何時やねんやろ。。。明日やったらエエな。
外食 かき揚げ蕎麦 326円
雑費 無添加ワイン 438円
脱脂綿 198円
液体歯磨き 598円
歯間ブラシ 398円
カルシウム錠 660円
JR 160円
南海 320円
合計 3098円
11月累計 62884円
右下親知らずが虫歯になった。別に痛みはないのだが、虫歯の味がしてイヤ。&放っておいて痛みだすと腫れが引くまで抜歯出来ないし、早めに歯医者行かんとアカンな。
んが、もう少し行けないので諸々薬局でお買い物。
所属寺での学習会。今日は無我相経を中心に。
当然、基本を押さえつつ学習するのだが、会場が真宗寺院だし、私も真宗門徒なので、多分、スタンダードな原始仏教とは違った感じでしか学べない。
釈尊最初の弟子達。大真面目に熱心に苦行をしていた人達。だからこそ、
【「比丘たちよ、色は無我である。比丘たちよ、もし色が我であるならば、色は病にかかることはないし、また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。しかし比丘たちよ、実に色は無我であるから色は病にかかり、また色に対して『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。】(無我相経より)
という言葉が飛び込んで来たのだと思う。『教えの言葉』=『道理』として、飛び込んで来たのだと思う。
思うように生きたい。当たり前だ。思うように生き、自分や世界を支配したい。当たり前だ。
そうやって、苦の再生産を続けているが故に釈尊の言葉が『教えの言葉』として、問われる言葉をして、私を照らす言葉として飛び込んで来るのだ。
『一切皆苦』と云う言葉。すべては思い通りにならん、っちゅう言葉。
だが、日頃の生活は、全て『思い通り』にしようとしている。だから、『一切皆苦』と云う言葉が輝く。頭が下がる。
執着しているが故に、教えの言葉が、信仰の言葉が、他の誰でもなく『私』に必要となってくる。
『誰かの為』ではない、『私』の為に必要となって来る。
僧侶になる、サンガの構成員になる事は『あがり』ではない。『始まり』であり、永遠に『始まり』である。それが、『仏』の『弟子』である事。
私を抜きにした『教え』は絵に描いた餅。だから『論理だけ』になる。論理は必要だが、論理だけなら、教えは他人事である。
今日は25日。法然上人の命日。
法然滅後に残された弟子達の念仏講。自分達を弾圧した人達の為の念仏。しかし、その場に弾圧した人達は居ない。
敵にしない。怨むによって怨み返す事をしない。弾圧した人達を間化しない。自分達と別存在にしない。
当然、怨んだであろう。怒ったであろう。だからといって相手を間化しない。してしまいそうになるが故に念仏申す。
同じ人間として、同じ尊敬される存在として。
間化扱いされても、いや、されたが故に、だからこそ、間化しない。
「あんなヤツ等」「敵」等々。そういう風に感じてしまうが故に、『一切衆生と共に』と云う言葉が教えの言葉になる。他の誰でもなく、個人の教えの言葉になる。信仰の言葉になる。
それは、例えば政治等の世間では弱いかも知れない。敵にする。抵抗勢力、保守勢力等とレッテルを張って『敵』にした方が世間の意見としては強い。思いを適えるだけでイイのなら。しかし、それは所詮、思いを適えるだけの話である。
敵など居ない。意見と立場が違うだけの話である。
それが、意見と立場を認められなかった者の論理である。敵とされた鬼の論理である。鬼の生きる道である。
当然、鬼など居ない。ただの人である。
意見と立場を認めらないから、敵にしてしまう同じ人間である。
鬼とされた辛さがあるから、この辛さをやり返すのでなく、この辛さを味合わせたくないと。「この鬼が!」と、言ってしまう事に慚愧する。
「鬼ではない。同じ人間だ!」とは批判しても、相手を鬼にしてしまう事は、違う。
天皇も人間である。
そして天皇と同じ人間である宇都宮まきちゃんが、なんと週刊プレイボーイでグラビアデビューしてしまうらしい。
さっき録画してた『マルコポロリ!』を観て知ったのだが、これは大変である。まきちゃんが全国的人気になるかも知れない。しかもグラビアといっても『あずき色のジャージを着て、押し入れでパンの耳を食べている』『小さいスクール水着を着て沢山の御飯を食べている』という、貧乏&大食いキャラ全開のグラビアらしい。
発売日は何時やねんやろ。。。明日やったらエエな。