坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

憲法9条は信心表明

2007年10月07日 | 坊主の家計簿
 10月7日
 
 外食  きざみうどん      240円
     回転寿司        609円
 食類  豆腐           98円
     カットパイン      100円
     国産豚肉        181円
 雑費  たばこ         300円

 合計             1528円
 10月累計         28012円

 結局、『二日酔い』の連休やったなぁ。。。と、起きてからの感想。
 まあ、深夜に飲みに行くなんぞ滅多に出来ないし、二日酔いも滅多に出来ないからエエねんけど。
 近所でやってるだんじり祭を観たりしながらボンヤリ過ごす。
 明日から仕事なので、少し気合を。まあ、入れんでもエエねんけど。

 真宗仏教では『生きている』のでなく、『生かされている』と云う。様々な御縁によって、関係存在の中で『生かされている』。
 どっちか、っちゅうとこれは運動系では否定されがちな言葉なのかも知らん。
 けど、憲法9条の問題でなら、この『生かされている』っちゅう言葉が非常に重みを持って来る言葉だと感じる。
 
 『生きている』から、軍備を持つ。
 「生かされている』と云う、信頼の一点に『だけ』立つのなら、軍備なんぞ当然の事要らない。他者を私と同じ『人間』として尊重する事が、共に如来から尊敬される『御同朋』『御同行』として信頼出来るのなら、『一切衆生悉有仏性』が、『真』であると信じれるのなら、湧いて来る不信を否定出来るのなら、軍備は要らん。
 軍備を持つ事自体が、相手を信じていない事の証明だ。

 子「お母ちゃん、このスタンガンは何?」
 母「これはね、あなたが家庭内暴力を振るった時の為の防御なの」
 
 そんな家庭が信頼出来る場所になるわけがない。
 仮に寺にグレ始めた子どもの相談をしに行った時に「では、自衛の為にスタンガンを買いましょう。今ならお得で3割引にさせて頂きます」なら、失格やろ。

 真宗仏教では『山伏弁円』の話(http://www.senjuji.or.jp/doctrine/sinran17.html)を思い出す。
 あの時に親鸞が武装してたらどうなったのだろうか?
 「聖人、弁円のヤツ等が聖人を狙ってますぜ。」
 「なに?弁円のヤツめ。不届き者めが。まず敵の情報収集の為にスパイを出せ。そしてこの草庵と周囲に爆薬を仕掛けろ。我々は裏山に隠れて、弁円達が攻めて来たらドッカン!や」
 「さすがは聖人、それは素晴らしい作戦です」
 。。。
 という様な事は親鸞はしなかった。やったのは後の一向一揆の時代である。
 親鸞は弁円に対して仏性を当然見ていたであろうし、だから弁円を『受け入れる事』が出来た。

 こういう古くから真宗仏教に伝わる話、古くさい話こそが憲法9条にとって一番の力になる。

 これは完全に受け売りなんだが、ブッシュ氏が戦争で人を殺した事に対して心を痛めていなかったら、真宗仏教なんぞ成り立たない。ブッシュ氏に仏性がないのなら、真宗仏教は成り立たない。『成り立つ』と云うのなら、それは『善人で救われた』だけの話である。
 ただ、ブッシュ氏はアメリカ大統領である。その『大統領』としての『立場』を重んじるが故に戦争を辞められないだけの話である。だったら、ブッシュ氏に対して、その痛めているであろう『人間の部分』を認める事によって、「認めてイイんだよ」と伝える事によって、ブッシュ氏が自身の仏性に目覚めること、善人悪人関係なく誰であろうとも備わっている『仏性』に目覚めることによって、その『痛み』の部分を拡大化する事によって、戦争は回避出来るのではないのか。
 いや、小山広明さんは、そういう話をこの間の参院選に9条ネットから出馬した時に選挙演説として話して居たらしい。当然、私が受けとった形でかなり変形しているが。

 例えどんな人であっても、相手が同じ人間である事、共に如来から尊敬された『人間』である事を信じる、世間的価値観、『アメリカ大統領』とか、『北朝鮮の最高指導者』、『ミャンマー軍事政権のトップ』とかの見方でなく、共に『如来から尊敬された人』として『だけ』の見方に徹するのが念仏者ではないのか。
 敵ではない。同じ人間である。

 国民投票法案で憲法9条を守る為には、当たり前の事ながら正義の押し売りでは無理である。
 「憲法9条を守る事が正義であり、『改悪』しようとするヤツ等は悪である」では無理である。まあ、これは他の運動でもなんだが。
 当然、「9条の学習会に参加しない人達はダメ」でも無理である。そんなもんは人間を冒涜しているだけの話である。
 真宗門徒、念仏者が伝えるべき事は念仏であり、その一番古くさい念仏の中にこそ、憲法9条の精神がある。
 運動の中にではない、古くさい保守本流の念仏の中にこそ、憲法9条の精神がある。光り輝いている。
 『生きている』(=自力の心)の『日頃のこころ』だから軍備を持たずにはいられないのであって、そういう在り方を批判出来る精神、阿弥陀如来の精神(=他力)『生かされている』からこそ、軍備を持つ事、他人を信じられない、他人から信じられようとしない在り方を批判されるからこそ、『軍備は持たない』と。古くからの念仏者がよく云う「お任せします」と。『生かされている』と。

 憲法9条は純粋に信心の表明の話だ。
 大阪有数のバリバリの市民運動家であり、そのくせ徹底して相手を尊重し、相手を斬り裁く事をイヤがる小山広明さんは圧巻やぞ。ホンマ『大先生』やな。ホンマに、どっか呼べる所があったら呼んだらエエ。ワケ解らんくらいにブッ飛んどんぞ。『ど念仏』でっせ、『ど念仏』。「念仏も」ではなく、「念仏だけ」の世界の住人でっせ。圧巻やった、ホンマに圧巻やった。「念仏者ってスゲエ!!!!!」と感動でっせ。