坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

人権は神聖にして犯すべからず

2006年06月17日 | 坊主の家計簿
 6月17日

 食類    たまご           198円
       チキン南蛮弁当(半額)   199円
       豆腐小3パック        78円
 
 合計          475円
 6月累計      55648円

 ああ、タバコって、あったら吸ってまうなぁ~。外出する時は持って行けへんから吸わんけど、こうやって部屋でブログなんぞを書きながら「ビールでも。。。」と思って冷蔵庫を開けるとタバコが入っているのは危険やなぁ。まあ、ええねんけど。

 そういや今日もヘンリーライヴがあって、っちゅうか、『ハーベスト』っちゅうやつで、そういや働いてた作業所の兄ちゃんが、「ハーベストタイム!」とか、よく仕事中に云ってたなぁ。で、「○○君、ハーベストタイム観た?」とかって聞いてくるねんけど、「どんな番組?」と聞いても、「しらん」としか答えへんし。まあ、基本給が4万ぐらい高い『健常者仲間』で話し合った結果、「そういう名前のキリスト教の番組がある」事が判明して、話題の為に一度みたんだが。。。って、話がそれた。
 
 ヘンリーの歌の中で
 ♪そのピストルを埋めてくれないか?
  深く、深く
  もっと深く
  二度と取り出せないように

 っちゅうのがあった。但しうる憶えだが。
 まあ、取り出せないなら使えないわけだし。

 と、非常にボンヤリしてます。

 
 昨日のニュースが変わらず気になる。(http://www.asahi.com/politics/update/0616/003.html。『北朝鮮人権侵害対処法』なんだが、なんか、「人権ってなんやねん」の気分。

 『人権』って、当然、無茶苦茶大切な事だ。でも、その『人権』が戦争の道具になるって、「なんじゃそら?」だ。もう、ワケ解らん。
 同時に『人権=絶対善』であり、人権に対する批判が許されないムードも感じる。っちゅうか、『人権無視』はひとまず置いとく。
 なんか、『人権は神聖にして犯すべからず』と揶揄したくなる。
 似た様なものでは『ヒューマニズム』っちゅうのもある。『ヒューマニズム』は当然大事だが、限界もある。
 まして、人間がやる事だし。故に批判が大事だと感じるのだが、人権に対する批判、あるいはヒューマニズムに対する批判が許されない風潮もある。そういう風潮は怖い。

 解放同盟に関する事件がボロボロ出だして来た。非常に良い事だと思う。解放同盟だって人間がする事だ。人間の組織だ。故に解放同盟が犯したミスに対して批判する、あるいは組織に対する批判も良い事だと感じる。
 だからといって、『批判されるような事柄』があった事=解放同盟全てが悪いわけではない。当たり前の話だが。なんだが、なんかそういう風潮を感じてしまうのは気のせいか?
 そういうのが一番怖い。

 人間がやる事じゃないか。
 間違える事があって当たり前だし、でも、『間違いは間違い』だ。間違いを正統化してしまうなら、間違いは間違いでなくなってしまう。
 だから、『他者』と云う批判が大事なのであって、例えば『浄土は批判原理である』と云うのもそれならばOKだ。

 坊さんも人間である。
 でも、宗教は危ない。
 『宗教』と云う名のもとの戦争なんてゴロゴロあるし、真宗教団だって殺しあいをしてたわけだし。一向一揆はそれ程きれいなものでもない。

 『アジアの解放』
 ああ、なんて素晴らしい言葉なんだろう。

 イラクの人権無視に対する制裁の人権無視。わけわからん。



【比丘達よ、人間の寿命が十歳のとき、七日の間激しい戦乱が生じた。彼らはお互いに鹿の想を受けた。そして、彼らは各々鋭い刀を手に持って現れた、その鋭い刀によって、『これは鹿だ。これは鹿だ』と、各々がお互い生命を奪い合うのである。しかし、比丘達よ、これらの衆生のある者に、次のような念が生じたのである。『我々はだれをも害することはできないし、まただれもが我々を害することはできないのだ。それでは、我々は叢林や樹木の間の穴に寄り掛かり、河の洞穴や岩窟に隠れ、木の根や果実を食して身を保つことにしよう。』

そこで、彼らは叢林や樹木の間の穴に寄り掛かり、河の洞穴や岩窟に隠れ、木の根や果実を食して身を保ったのである。そして、その七日が経過した後、彼らは叢林や樹木の間の穴や、河の洞穴や岩窟から出てきて、お互いに抱き合い相集まって、喜び祝って、こう言った。
『喜ばしいことだ。あなたも生きているのか。あなたも生きているのか。』

そのとき、比丘達よ、彼ら衆生には次のような念が生じたのである。

『我々は不善法を行じたことにより、長いこと近親を滅ぼすことをしてきたのだ。それならば、我々は善法を行じようではないか。では、どのような善を行じたらよいのだろうか。そう、我々は殺生を禁じよう。我々はこの善法を受持することにしよう。』

そこで、彼らは殺生を禁じて、この善法を受持した。そして、彼らは善法を受持することによって、寿命は延び、顔色は美しさを増していったのである。彼らの寿命は延び、顔色は美しさを増していき、人間の寿命が十歳のとき、その子の寿命は二十歳となったのである。 】(転輪聖王獅子吼経より)



 昨日も引用したが、引用の中の
 【そう、我々は殺生を禁じよう。】
 って、なんて美しい言葉なんだろうか。

 【吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。】(宣言より)
 を思い出させる。絶望の内からの光。

 でも、それをやっていくのは『人間』である。
 だから

【比丘達よ、自らを島としなさい。自らを帰依処としなさい。法を帰依処としなさい。他を帰依処としてはならないのである。比丘達よ、それでは、どのようにしたら、比丘は、自らを島とし、自らを帰依処とし、他を帰依処としないで、法を島とし、法を帰依処とし、他を帰依処としないで、とどまるのであろうか。 】(転輪聖王獅子吼経より)

 なんだと感じる。
 決して
 【しかし、彼は父である王の所に行って、聖なる転輪宝について問うことをしなかったのである。】(転輪聖王獅子吼経より)ではない。


 人権って、無茶苦茶大事な事だ。だからといって、実際にその『人権』を扱うのは人間だ。限界のある人間だ。
 人権を『扱う側に立つ』、あるいは宗教を扱う側に立つ。
 学生時代にある老僧から、「あなた達は卒業して法話をする事もあるでしょう。でも、その法話を一番最初に聞くのは自分自身です。」と教えてくれた。

 『人権』と云うが、『人権思想』である。
 坊主に対する批判でよく聞くのが、「お前等、云ってる事とやってる事が違うやんけ」と云う批判がある。その通りである。坊主と云っても『その教えに生きようとする者』でしかなく、決して『その教えを体得している者』ではない。あ、他宗は知らん。けど、教えを体得したら『仏』だし、『菩薩』ではなくなってしまうはずなのだが。。。
 人権思想でも同じではないのか?
 人権思想を体得した『人権仏』なのか、それとも人権思想に生きようとする『人権菩薩』なのか。

 人間がやる事だから、間違いは当然ある。でも、間違いはいつでも、何度でもやり直せばエエだけの話だ。頑なになって「私がやっている事には間違いはない」と云うのは、愚かだ。また、愚かだからこそ、正義を立てる。批判を許さない。
 「こんなに熱心に人権活動する私達に対して批判するなんて、何様のつもりなんでしょうか?」
 「少しは人権の事について考えて貰いたいもんだね。」
 と、穢れを作り出す。
 人間は間違える事がある。