坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

如是『我』聞

2006年06月03日 | 坊主の家計簿
 6月3日

 雑費   缶コーヒー           120円
      金鳥リキッド詰め替え用2本   980円
      金鳥カトリス交換用       798円
 食類   かき揚げそば          326円
 
 合計        2224円
 6月累計      5403円

 夕方からのお参りが終わってボンヤリ。雑用&食事を済まして『マグダレンの祈り』と云う、きっつい映画を見る。

 その前に、今日は毒ガス兵器購入。蚊よ。私が快適な生活を送る為に死んでくれ。『死んでくれ』は逃げやな。殺す。別に許さなくてもイイ。充分に祟って呉れ。罪は罪だ。

 『マグダレンの祈り』は、女性が観たらまた違った印象なんだろうし、っちゅうか、『感じ』なんて、それぞれの感じ方か。またステロタイプに陥ったな。
 宗教の暴力。そんな事を感じた。きっつい。。。
 しかし、なんで宗教に騙されるのだろうか?その教えが『真実』であると感じる事が出来るのならば、それはあくまでも個人的な問題でしかないと感じる。
 「どこそこの有名な大学の先生だって、うちらの宗教を褒めている」
 でも、なんでもエエのだが、そんなもん関係ないやん。単なる権威やん、権威に従う事によって、「どうやって生きて行くのか?」みたいな根本を判断しようとするのは、おかしな話ではないのか?テメーの頭で考え、身で感じ、判断するしかないのではないのか?
 「そんな事してたら地獄に堕ちるぞ!」って、例えば諸々も著名な、あるいは歴史的な書物を持って来る。多くの信者が居る。
 でも、決めるのは『個人』ではないのか?その個人を『売り渡して』いないだろうか?もったいない。

 日本には諸々の習俗がある。その習俗の基本は宗教だ。仏教だったり、神道だったりするのだろうが。そんな宗教行事を「これは日本古来からのものだし」っちゅうのは、違う。絶対に違う。

 宮津市で面白い『事件』があった。(http://www.city.miyazu.kyoto.jp/kiyome.html
 『清め塩』は、宮津市が指摘する理由でもって私も宗教的に許せない。が、それはあくまでも『宗教』と云うジャンルのものであって、行政が判断を下すべきではない。確かに『私』もしくは『真宗門徒』と云うくくり、広げると『仏教徒』でもいいと思うのだが、そこから見れば『革新的』ではある。「よくやった、宮津市!」と言いたい気持ちもある。当然ある。が、どう考えてもあれは越境行為である。そんな『社会正義」など、信頼出来るわけがない。

 昨日聞いた「お婆ちゃん、てんとう虫とってん」と云う近所のガキの言葉。多分、私もガキの頃にお婆ちゃんに散々言ったと思う。お婆ちゃんっ子だったし。
 でも、お婆ちゃんは死んだし、私は大人に成った。何時までも誰かに褒められたい、認められたい、と云う感情だけでなく、それは『虚仮である』『弱さである』、ぐらいの強さは持ちえたい。

 ボランティアは好きである。っちゅうか、大切な事だと思う。でも、うちのオカンですら「最近こんなボランティアやってんねん」っちゅうムードはキライである。内申書に書かれる様な事はおかしい。バケツリレーの演習でも始める気か?

 それぞれの人が、それぞれの人生の中で毎日行なっている行動がある。生きてるんだし、当然何らかの行動はしている。その行動に『善』と『悪』との判断基準、あるいは『価値ある行動』『意味の無い行動』と、だれが判断するのか?
 特定の宗教団体なら解る。しかしそれはその宗教団体内の話である。あるいは何かの思想の判断基準である。それは当然認めるし、私にだってある。『思想』と呼ばれるような体系だって居なくても。

 『存在』は間違いのない絶対的な『力』である。
 私にとって蚊を毒ガスで殺す事は罪である。しかし、それはあくまでも『私にとって』であり、当然、私はそれを叫ぶが、それは決して絶対的なものであるわけがない。
 
 何が正しいか、何が真実なのかを決めるのは、あくまでも『個人』である。確かに間違いなく、自分で自分を卑下しようとも、他人からボロクソに云われようとも、世間に無視されようとも、『個人』は存在する。