坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

頭から抜け出せ!

2006年02月03日 | 坊主の家計簿
 2月3日

 外食   回転寿司     420円
 雑費   缶ミルクティー  120円
      タバコ      300円
      ガソリン     323円
 食類   菊菜       120円

 合計      1283円
 2月累計    3303円

 ガソリン代は、我が愛車のHONDAスーパー孫一50の。

 今日は節分だったらしい。ので、お参り先のお寿司屋さんに行ったら御土産(?)で太巻きを貰った。3本貰って、2本は寺に。1本だけ貰って来て晩飯に喰ったのだが、具も多いし腹一杯やんけ。。。ので、菊菜と、これまたこの間買ったきりでまだ食べていないエノキで『おすまし』を作ろうと思っていたのだが、辞め。明日や、明日。

 今日は、明日久しぶりの法事なので普段読まない御経の練習。完璧だ。。。さすがは坊主初年度に腐る程読み込んだだけの事はある。練習なので無茶苦茶ハイスピードで読んだのだが完璧。んが、明日はペースを落として読まなければ。。。早く読み終わったらその分『法話』が永く成る。。。って、逃げてるなぁ。。。

 ちょうど今日が節分だったので、節分で喋ろ。まあ、法蔵菩薩の国作りでんな。

 時間があったら下書きしようと思ってたけど、結局掲示板で時間が無くなった。。。
 まあ、阿弥陀さんは
 「鬼は外、福は内」なんぞと云うわけがない。
 『鬼」は異物である。異者である。自己で云うのなら『認めたくない自分』である。自我中心の中での『認めたくない自分』『認めたくない他者』である。
 『福』とは、『そうなりたい自分』『役に立つ他者』等のキーワードがすぐに思い立つ。自我中心の中で自我拡大を計るだけの話である。
 阿弥陀は『選ばず、嫌わず、見捨てず』である。いかなる自他であっても。

 気持ちは解る。私の気持ちも何時だって「鬼は外、福は内」なのである。しかし、それは身の事実に即していない。自己分裂である。
 
 『鬼』を『罪』と言い換えてもイイかも解らない。が、『罪』を外に出してしまったのなら、『罪』を自覚する事等あり得ない。「あの時の私はおかしかったのだ」にしか成らない。それは『私』に対して余りにも不親切であり、愛情が足りないのではないのか?
 自我中心の愛情などそんなもんだ。『都合』で判断する。そして迷いに迷いを重ねて行く。で、それが『迷い』だと気づこうとしない。
 しかし、私(達)は「生きている」。そういう事実がある。共に生きている『場』が、まず無条件に与えられている。


 早く寝ろ、っちゅうねん。。。

 48願のサンガ論、「どういう国を目指すのか?」まで行くとややこしいので明日は辞め。っちゅうか、ネット上なら基本的に自問自答だが、法事は人が居るから大丈夫。

 掲示板(http://8025.teacup.com/erovows/bbs)を読んで居ない人や、殆ど真宗門徒以外には解らない話だろうが、『正定聚=縁起』と云う展開を自問自答しながら本を読みながら確かめているわけだ。
 私は境地主義は徹底的にキライであり、神秘主義もキライである。いわゆる宗教体験なんぞ、私は神谷美恵子の『生きがいについて』ぐらいでしか知らないが、まあ、その本によると隔離されたり、重病の人達の中で『宗教体験』をする人がかなり居る、と。まあ、『梵我一如』的な『天地自然との一体感』っちゅうやつでんな。ちなみにこれくらいなら私もした事がある。でも、それは仏教ではない。けっして『目覚めた』わけではない。『心の中』に引き込んだだけの話だ。
 『目覚めた』とは現実である。現実と云うのは『他者』が居る世界である。『他者』から問われる世界である。決して脳内麻薬で酔っぱらって居る世界でもなく、自分の世界に引き蘢っての想像の世界ではない。想像しての「私は罪深い」ではない。現実社会から問われる、現実の他者から問われる『罪』なのだ。食べるものも「生き物を殺して喰っている」わけだ。

 境地主義は非常に『宗教らしい』。だから仏教でも何でもない。ただのまやかし。アヘンの宗教。
 で、自我はそれが好きなだけの話。