大激戦でした。
羽生名人の作戦勝ちで形勢は65対35、あるいは70対30とまで言われた2日目午前中でしたが、午後のBS中継が始まる頃には、怪しげな雰囲気が漂い始め、夕食休憩時にはほとんど互角まで追い込まれました。
最近の名人は2日目の午後のBS中継が始まる頃から、足取りが怪しくなるので、嫌な予感はしていましたが、まさにその展開になってしまいました。
羽生名人の手がややちぐはぐだったとはいえ、目立った悪手はないので、そもそも65対35という形勢判断が、過大評価だったのではないか。確かに、後手の郷田陣は8筋の弱みや玉の周りも隙間が多い。対する先手の羽生陣は、矢倉の堅陣である。しかも、穴熊に組み替える余地や右辺から盛り上がる筋、また、仕掛ける手もあり大きく作戦勝ちしているのは間違いない。
しかし、対振り飛車に対する矢倉と言うのは思いのほか弱いようだ。正面あるいは上からの圧力には強いが、横からの力にはあっけなく横倒しになってしまう。(堅固そうに見えて梁(はり)が弱いと言えばよいのか)
郷田九段は、一手パスのような手順で▲8四角と歩を取られながら急所に角を呼び込む。その代わり、6筋の位を張るという勝負手を放つ。
結局この方針が功を奏して、△6四角と出られてしまっては、一気に差が縮まってしまったようだ。後手角を6四で威張らせてしまったのが、羽生名人の大局観のブレを感じさせる。
とは言え、郷田九段の指し手を真っ向から否定してしまった一日目の名人の指し手はいかにも羽生名人で見事だ(アマチュアが名人に「見事」というのは変ですが)。できれば、そのまま押し切って欲しかった。
さて、6四の角に睨まれて、負担になりかけていた先手の銀桂を飛車との2枚換えであるが、捌いたのが第1図。
BS中継では、ここで△6四銀が有力で、佐藤九段と阿部八段があれこれ検討しているが、なかなか難しい形勢のようだ。言葉の端々には「難しいが先手がよくなる順がありそう」というニュアンスが感じられる。
中継サイトでは△6四銀のほかに、
「△5五歩▲同角△同馬▲同飛△6四銀打。以下▲5二飛行成△同銀▲5三歩△同銀引▲4三金ならば△6九銀でどうか? 以下▲5二金に△7八銀成▲9八玉(▲同玉は△7七桂成▲同玉△6五桂▲8八玉△6六角以下詰み)に△8三玉が「絶品です。△8六桂以下の詰めろ逃れの詰めろです」(久保棋王)
という解説が記されていた。
危うし、名人!
だが、この順も、対局者しかわからない変化があったり、対局者では踏み込めない順だったり、疲労や時間切迫もあり、そうは進まないと思っていた。
郷田九段長考。夕食休憩を挟んで指された手は、△8六歩!
筋と言えば筋だが、桂に当たっている7七の銀が手順にかわせるので、ありがたい気がする。ただ、中盤の入口で▲8四角と歩を取ったために生じた手であるので、少し嫌な感じだ。
直感的には、先手がよくなりそうだ。考えどころ。羽生名人も熟考する。しかし、最近の羽生名人は、こういう局面で、読み切れず、かえって時間切迫に陥ることがままある。
△8六歩以下、▲同銀△9四桂▲4六歩(渋い!)△6四銀打▲5三歩△6二金寄▲8四角△5五歩▲6六飛△7三銀打▲9五銀△8六歩▲7三角成△同玉▲8六歩△4八馬▲2一飛成△6九角▲8五桂△7二玉(第2図)と進む。
取られそうな7七の銀が手順に9五に進み、後手玉を攻める足がかりになっている。また、自然に▲2一飛成と桂を取り、その桂を▲8五に打って後手玉を包囲した第2図。
決め所だ。
▲6五飛!。
「△同銀▲8四桂△7一玉▲5二歩成で「これが詰めろですよね」(佐藤九段)。以下△5二同銀は▲7二銀で先手勝ち」
と、中継サイトの解説。
決まったか!
△8六桂。
……なんだ?
……△7八馬の詰めろだが、この桂は、ただ。
しかし、▲8六同銀と桂を取ると、△6五銀と飛を取られた時、▲8四桂と打てない(桂がただになる)。
なんという手!これは喰らったか?
必死に先手の勝ち筋を探す……▲7三銀と打つ手がありそうだ。
△同銀なら飛車当たりがなくなるので、▲7三桂成△同金を決めてから▲8六銀と手を戻せばよさそう。しかし、▲7三銀に△同金とされると▲同桂成△同玉で、依然詰めろと飛車取りが残っている。
以下、8五桂と迫る手があるが、その後はよくわからない。先手が残っているような気がするが、読み切れない。
羽生名人、▲7三銀!
読みきったか?
正直、二冠に後退したころよりも、信用がない。半信半疑、ドキドキしながら指し手を見守る。
鮮やかな▲7三角(第3図)を見て、ようやく、勝った!
以下△7三同銀▲9五金△同玉▲7三桂成と進み、一分将棋の郷田九段、
△7五銀!(第4図)
8五に合駒や、△8四玉は読んでいたが、△7五銀!……読んでいない。
もちろん、同歩と取る余裕はなく、しかし、この銀は8四に利いている。
一瞬、眩暈がした。
サイトのコメント欄にも、
「羽生は一瞬、頭を抱えるようなしぐさを見せた。「残り7分です」。羽生は大きく髪をかきあげる。」
大丈夫なのか?………大丈夫だった。
後手の持駒の金が1枚だけだったので、詰みがあった。
何とか、逃げ切った。
しかし、おかしい。
第2図辺りでは、かなりよかったはず。どうして、こんなにきわどくなったのだろうか?
原因は、おそらく第2図での▲6五飛。
この▲6五飛では、▲7三銀が正着。以下△7三同銀なら、▲同桂成△同金(玉)▲6五飛でよい。また、▲7三銀に△同金と頑張っても、▲7三同桂成に△同銀なら▲6五飛でよい。▲7三同桂成に△同玉なら▲6一龍でよい。
本譜は▲7三銀の前に、▲6五飛と△8六桂の手の交換を入れてしまったため、いっぺんに難しくなってしまった。
つまり、△8六桂が詰めろであるのに対し、▲6五飛は桂を取っただけ。一手の価値は△8六桂のほうが大きい。しかも、取られる駒としては桂と飛で、先手の損が大きい。
それにしても、単純に8筋だけの手のやり取りだけに注目すると、8六の銀に△9四桂と働きかけ、▲9五銀に△8六歩と打ち、▲同歩△同桂▲同銀(実際は取らなかったが)と桂を捨てただけである。これが、郷田九段の渾身の勝負手となったのだから、将棋は奥深い。