布施弁天界隈の自然と歴史情報

関東三弁天の一つである柏市布施弁天界隈の城跡、神社、仏閣等の歴史的遺産の紹介とあけぼの山近辺の花情報の提供

国立競技場に翻った布施弁天の庇護者本多家の家紋立葵

2008-02-20 | 歴史
先般、春を求め、房総路を旅したが、その目的のひとつが、柏に代官所を2つ置き、布施弁天のよき庇護者であった駿河田中藩本多家、最後の城である長尾城跡をみたかったからです。
明治政府は、慶応4年(1868年)、徳川宗家の家達をこれまでの領地より切り離して、駿河府中に藩換えにより入封させる。そのため、もともと、そこにいた駿河の藩主たちはあおりを受け、上総、安房に移封され、駿河田中城主であった布施弁天の庇護者の本多家も安房の長尾藩主(4万石)とさせられたのである。初代の藩主は本多正納で、そのための居城を、今は南房総市となっているが、旧白浜町長尾に築くことになる。柏市内に2つあった本多家の船戸代官と藤心代官に勤めていた家来たちも明治2年(1869年)までに移転して行ったと思われる。
この長尾城は、旧里見氏の城があった白浜城跡の隣に作られることになる。しかし、この長尾城は築城途中に台風により倒壊し、築城をあきらめざるを得なかった。そこで、本多家は、水野氏が文政年間に構えた北条村の陣屋を再興して、しのいだのである。明治3年(1870年)12月に正納は隠居し、甥の本多正憲があとを継ぐ。だが、それも翌年(1871年)7月、廃藩置県により長尾藩は廃藩となって、長尾県となり、免官されてしまうのである。同年9月には正憲は東京に戻ってしまう。さらに、同年11月には、この長尾県すらも木更津県に編入され、最後には千葉県に組み込まれてしまうことになるのである。
背後を長尾川で守られていた天然の要塞ともいえるこの未完成の長尾城跡は、現在、森となり、その当時を物語る建物は一切残っていない。石碑等も、私は見かけなかった。里見城跡のはあったが。しかし、専門家によると、長尾城の腰曲輪や郭の跡は残っているようだが、素人にもわかるような土塁や空堀などの構築物等は見受けられない。
実に、約200年の長きにわたって布施弁天の庇護者であった本多氏の消息も、この正憲を最後に私には、皆目わからなくなってしまうのである。わかっているのは、正憲は後に子爵、そして貴族院議員となるが、大正15年(1926年)7月に隠居し、昭和12年(1937年)5月に89歳で死去したということだけである。
本多家は、布施弁天があった布施村に何を残したのだろうか、そして、最後の地の長尾には何を残したのだろうか。この両方を見たものにとっては、世の中は、暖かい春に向かっているというのに、単なる領主と領民という関係にしかすぎなかったかと思うと、歴史の無常しか感じられなかった。
だが、である、旧船戸代官所があった船戸地域の船戸会館で江戸時代から恒例的に行われている船戸おびしゃに、静岡県藤枝市の田中城史跡案内ボランティアの人たちが、近年、招待されたという話を聞いたことがあります。このように市民レベルの交流が今も続いていることは、素晴らしく、嬉しいことだと思っていたら、今年、それ以上の交流(?)があったようですね。
そう、記憶にも新しいと思いますが、1月14日、東京の国立競技場で行われた第86回全国高校サッカー選手権大会の決勝で流通大学付属柏高校と対決したが、領主本多家の地元の藤枝市の藤枝東高校でしたよね。
その際、この国立競技場の電光掲示板横に本多家の家紋である立葵の旗が掲げられたことを、何人の柏市民の方は気がついたでしょうか?この旗は、縦1.1m、横1.8mで、スタンド最上部に掲げられ、両校の健闘を見守っていたそうです。そして、この旗を制作したのが、田中城史跡案内ボランティアグループだそうです。
コメント
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