現在の高梁市立吹屋小学校(明治6年開校)は、明治42年に竣工した我が国最古と称される木造2階建ての校舎である。硝子越しに校舎の内部を伺うと、今でも学校建築として丁寧に使われていることがわかる。江戸末期から明治と、銅や紅殻の産地として発展してきた吹屋の経済力が、折上式天井や規模の大きさを語り、そして100年以上持つ堅固な構造が、現在の使用を可能にしている。親子孫3代が通ったという人々もいることだろう。今尚吹屋の文化シンボルである。
一般的に、木造校舎で学んだ経験を有する熟年世代は多い。そうした世代では、木造校舎の廊下を走り回ったり、廊下の雑巾がけさせられたことや、落書きや柱の傷を思い出すだろう。そうした思い出しとは単なる郷愁ではなく、様々な記憶が宿った意味空間の存在を示唆している。
建築空間には、様式、機能、生活の器といった物理的存在だけではなく、その空間に関わった人々の生活経験の蓄積によって、様々に意味づけられた意味空間としての存在がある。従って古くなったから、機能的に不十分だからといった安易な理由で、容易に立て替えればよいという話ではすまない。
我が国は、戦後復興や経済成長という名目のもとに、これまで実に多くの意味空間を取り壊してきた。それは建築だけに留まらず、町や都市の風景迄もが、意味づけられた空間を容赦なく捨てさり、現代的と称される風景に取って代わってきた。だか、潔く過去の意味ある原風景を切り捨て、その代わりになりうる期待が持てる未来風景を、私達は手にしているのだろうか。それを持ち得ないとすれば、私達は風景のない時代を歩いていることに他ならない。だから新しい風景のなかに、意味付けられた原風景を盛り込んでゆくデザインが必要なのである。
今日1日は倉敷に始まり、吹屋泊まりである。随分動いた長い一日であった。ラ・フォーレ吹屋という比較的新しい国民宿舎に泊まる。横浜を発って名古屋、呉、倉敷と泊まり今日で4日目である。
Canon EOS Kiss Didital F3.5-5.6/EF18-125mm
一般的に、木造校舎で学んだ経験を有する熟年世代は多い。そうした世代では、木造校舎の廊下を走り回ったり、廊下の雑巾がけさせられたことや、落書きや柱の傷を思い出すだろう。そうした思い出しとは単なる郷愁ではなく、様々な記憶が宿った意味空間の存在を示唆している。
建築空間には、様式、機能、生活の器といった物理的存在だけではなく、その空間に関わった人々の生活経験の蓄積によって、様々に意味づけられた意味空間としての存在がある。従って古くなったから、機能的に不十分だからといった安易な理由で、容易に立て替えればよいという話ではすまない。
我が国は、戦後復興や経済成長という名目のもとに、これまで実に多くの意味空間を取り壊してきた。それは建築だけに留まらず、町や都市の風景迄もが、意味づけられた空間を容赦なく捨てさり、現代的と称される風景に取って代わってきた。だか、潔く過去の意味ある原風景を切り捨て、その代わりになりうる期待が持てる未来風景を、私達は手にしているのだろうか。それを持ち得ないとすれば、私達は風景のない時代を歩いていることに他ならない。だから新しい風景のなかに、意味付けられた原風景を盛り込んでゆくデザインが必要なのである。
今日1日は倉敷に始まり、吹屋泊まりである。随分動いた長い一日であった。ラ・フォーレ吹屋という比較的新しい国民宿舎に泊まる。横浜を発って名古屋、呉、倉敷と泊まり今日で4日目である。
Canon EOS Kiss Didital F3.5-5.6/EF18-125mm
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