日本の歴史は、都市が移動する毎に歴史名称が異なる。例えば奈良時代の奈良、平安時代の京都、鎌倉時代の鎌倉・・・、その同一歴史名称のなかで都市が動いた室町時代、安土時代に至っては安土城を中心に新都市を形成中に志半ばで潰え去り、栄華を極めた桃山時代の大阪、江戸時代の江戸である。といった具合に概して都が置かれた都市がそのまま歴史名称となってきた。つまり都を移したら歴史名称も変わってきたのである。
そんななかで都の構造や制度が大きく変わったのに都市を動かさず歴史名称だけ変えたというご都合主義的な都市がある。それが東京だ。しかも東のみやこだから、東の京都!。それは東村山とか東久留米とか東神奈川といった扱いと一緒だが、都市の名称としてはいかがなものかと京都人は考える。本来なら名称は江戸のままでよいか、或いは都をおく都市を変えるべきだった。
ここまでの話は、既にこのブログで書いた。
どこにそんなご都合主義的な要因があるか?。
それは試論的にいえば江戸時代にあるといえそうだ。特に徳川3代将軍家光の時に鎖国(1641年)を実施した。それは、日本が奈良時代より海外交易を基盤とし国家形成を果てしてき歴史のなかでは、これまでなかった異質な政策だということにある。
鎖国でやがて国内だけの規範ができてくる。というのも都がおかれた都市が変わらずに歴史名称だけを変えた唯一の例外が東京だから、江戸時代の規範は現代にも生きていることになりそうだ。それが江戸・東京時代であり、現在も江戸時代の規範が続いていると考えられる。その後全国統一を成し遂げており、江戸時代と政治のピラミッド型の構造は今も変わらない。
京都人からみると、今も徳川時代の中央集権国家とかわらんのかなぁーと思われる。
何が言いたいかというと、本来日本は海上交易を盛んにして発展してきた事は、沖縄県巨大グスクの出土品をみると明らかだ。そうした海上交易の範囲は、中国、韓国、ベトナム、タイ、ビルマ、インドネシアなど東南アジア全域に及ぶ。従って東南アジアをはじめとし、本来日本人は外国語に大変強い民族だったと考えることができる。そうした語学能力が鎖国によって中断されたとする仮説が成りたつのである。もちろん鎖国後に個別的に学ぶ蘭学等があったし、明治期以後英語教育も普及されつつあったが、公教育として国民全員が語学を学べるようになったのは、戦後昭和22年(1947年)の学校教育法が制定されてからの事である。
つまり鎖国後306年間も、海上交易国家の日本人は外来語の勉強から遠ざけられていた事になる。これが文化的鎖国である。
私が中学高校のときに受けた英語教育も、教育内容は読み書き(注)と、江戸時代の伝統を重視していたから文化的鎖国の弊害だろうか。
大学教員時代に共通一次試験の試験監督を務めていた頃、英語のリスニングが導入された。受験生に配布されるリスニング教材の英語を聞いたら、私にはアメリカ東海岸の上流階級英語のように聞こえた。つまりいまだにクイーンズイングリッシュなのである。私は明治期に渡来したイギリス外交官アーネスト・サトウの残影(注2)かと思われた。
いま世界の公用語は発音とコミュニケーションを重視するアメリカ英語である。それは読み書きではなく、発音矯正とコミュニケーション方法を学ぶことが必要になる。
それは私が学んだことがない学習方法である。だから独自に学ぶほかない。日本の文化的鎖国のおかげて、今頃になって私は苦労させられている。
私がフランス語を学んだ経験から言えば、語学は一端学ぶと、第三者が学習で右往左往している様をみると滑稽にさえ思える。あろうことか、それを優越感にすり替えてふんぞり返っている人種を私は文科系!、と言って軽蔑(注3)している・・・。
注1):高校の時に1学期間だけ英語発音の授業があった。そのとき先生の冒頭発言がすごかった「英語なんか読めりゃいいのですよ。どうせ入試に出ませんから・・・」
注2)アーネスト・サトウは日本を世界に紹介するとともに、日本語教材を残している。アーネスト・サトウ(坂田清一訳:1960)『一外交官の見た明治維新』岩波書店。
注3)大学の時の経験だが、私が英会話が上手でないことをいいことに、文科系英語の達人は酒の席で天井をゆびさし、こいつの頭は蛍光灯なんだよと外国人に紹介してくれた。私はフランス語での経験をしていたから、自分が優位に立ったからと言って語学力が不足する人間を侮辱するという、おごった態度をとってはいけないと悟った。
沖縄県慶良間諸島
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