Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Village Design15.雲南省・大理・喜洲鎮

2007年10月31日 | field work
 中国では街の地名の後に城市、鎮をつける。日本の市、町という意味である。今回は、大理古城から 洱海(じかい)に沿って北上した喜洲鎮をとりあげる。ここは田舎町と呼ぶのに相応しいぐらいの規模である。
 大理の民居は、壁に白漆喰を用いておりが、実際に大理古城を歩くと、瓦屋根に白い街並みが続く。個々の民居の、空間構成をみると、周囲を壁とし内部に中庭を設けている。この中庭に面して母屋を配置しており、母屋の数で三合院、四合院といった呼び方をしている。母屋の壁はそのまま外壁となっており合理的である。現代住宅いうところのいわゆるコートハウスであり、おおよそ中国全土に定着している建築様式である。従って民居への入り口は、小さく主に外敵に対する防御といった設え方が伺える。他方中庭では、収穫作物の乾燥や加工、或いは家畜を飼育すると言った生業の場として利用されていると同時に、日々の暮らしの場でもある。
 こうした中国民居のデザインを調査していると、生け垣などの軟弱な壁で囲われた日本の民居が、実に開放的であることに気づかされる。それは高温多湿といった風土の影響なのだろう。日本建築概念の1つに「結界」という言葉がある。結界とは、町屋の帳場のように、踏み込もうと思えば誰でも踏み込める程度のきわめて弱い物理的な境界を設け、利用に於いて特定の人しか踏み込めないなどの意味的境界でありデザインとしている。こうした曖昧さに比べれば、中国民居のデザインは、明確に内と外とが仕切られている。しかし内にはいると、中庭と母屋とがシームレスにつながった空間として利用されている。今日我が国に於いて、中国民居に関する調査研究成果も随分蓄積されており、論文も数多い。
 ところで、安藤忠雄氏の初期作品「住吉の長屋」は、中庭を介して2つの母屋を配置しているのだから、中国民居様式になぞらえれば、二合院である。以後彼の作品には、外界と壁で遮断し、内部に建築オリエンテッドな空間を実現した作品が多い。外の世界をどのように認識するかによって、建築デザインが変わってくる。中国民居も一連の安藤作品も、外界に対する凛とした認識が漂っている。そうした認識の強さが建築デザインに反映されている。
 こうした建築を見ていると、昨今のまちづくりの現場で言われている、建築を街に対して開こうとか、開放的な建築緑化をつうじて街に貢献しようといった、甘っちょろい認識とは、一線を画している。街に対して開けば、望まれないお客さんもやって来ますよ!、どうするんですか?
 望まない要素に対しては、門戸を閉ざす!中国民居には、そういう明快な認識が、建築デザインに反映されている。私達の外の世界に対する認識を問いただしてくる厳しさに、建築デザインの面白さがある。
 
1999年8月撮影.
EOS3,F3.5-5.6/EF28-135mm,コダクロームⅡ.
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Village Design14.雲南省・大理古城

2007年10月29日 | field work
 我々は、昆明からボロ飛行機で雲南省の奥地へ飛んだ。大理は、山岳地帯の中に出現する、洱海(じかい)という湖の周囲に広がる標高2,000m弱の高原地帯である。唐時代に築かれた王朝があった経緯の故か、この地域の少数民族であるペー族固有の文化が舞踏、工芸、料理などにみられる。特にペー族の若い女性が着ている民族衣装は、白地全体に刺繍が丹念に施されており華麗である。中心である大理古城は、観光地として整備されている。
 上の写真で右半分が、大理古城地区である。城壁に囲まれた街は、五番目状の路で構成され、長安などの古都の空間構造と類似している。街には、観光施設が集約し、目抜き通りには、中国民居様式によって再生された店舗建築ファサードが連なり統一感もあり、古城を演出しているのだろう。中国の街としては清潔感があるが、それも観光地故だろう。こうした手法は、タレントショップが連なる日本の観光地商店街よりはましかもしれないが、アメリカやヨーロッパでも用いられており、私にとっては退屈な風景であった。
 私達が撮影していた中和寺の背後には、4,000m前後の山脈が連なる蒼山がある。その麓に多くの集落が点在しているのである。私達は、大理古城を足場にして、洱海周辺の山麓集落を探し歩くことにした。
 
参考文献
1)陰 劼,鳴海邦碩 澤木昌典, 岡 絵理子:中国・大理古城における歴史的市街地の変容と保存施策に関する研究,日本建築学会計画系論文集,No.583. pp. 83-90
 
2)陰,劼; 鳴海邦碩; 澤木,昌典; 岡,絵理子:中国・大理古城における歴史的市街地の変容と保存施策に関する研究,No.583, pp. 83-90.
 
1999年8月撮影.
EOS3,F2.8/EF20-35mm,コダクロームⅡ.
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Village Design13.雲南省・武定郊外(続)

2007年10月28日 | field work
話は、戻るが武帝郊外の市場についてもう少し考察しておきたい。雲南省につき最初に訪れたので、印象が強かったのだろう。武帝郊外の市場は、規模が大きく市場に行くとほとんどの生活必需品は、そろう。農業のための種苗、肉や野菜や穀物或いは果物などの食材、耕作道具類や家畜、乳製品、布や毛糸といった繊維素材類、衣服類、工芸品、家電や図書に至るまで揃う。購入目的だけではなく、自家で栽培した農産物等を、市場に売りに行き、生計を建てるということも重要な目的である。市場に来る人々は、生産者であると同時に消費者購でもある。貨幣経済がなかった時代の、物々交換といった概念の延長上に市場が存在しているのだと、私は理解した。市場を理解する上で交換という概念は、重要である。このように、生計のために売りたい人と、生活必需品を買いたい人とを橋渡ししているのが、本来の市場の姿なのである。
 さらに周辺の集落からは、少数民族固有の正装で着飾った人達が集まる。普段は顔を合わせることがない人々の、社交と情報交換と娯楽の晴れ舞台である。そんなモノとヒトと情報の交換で市場は、あふれかえっている。そこが市場の面白さである。
 翻って私達の現代都市にも、市場がある。社会や流通の構造が高次化或いは細分化されてくると、武帝郊外市場のように、売りたい人と買いたい人とは、必ずしも同一ではない。そこが武帝とは大きな相違点である。市場と言うよりは、流通構造の一過程における大規模店舗或いは流通施設といってよい。さらに、私達が関わっているまちづくりでは、都市活性化のために市場的装いを演出した観光市場といったもの迄出現している。それは市場の顔をした一時しのぎの享楽的市場或いはレジャー施設でしかない。享楽的というのも、紙幣と交換されるモノやサービスといった対価以外に、何か交換要素があるのだろうか。
 流通構造の変化に伴い、市場の概念も変わってきている。そのことは、当然のこととしても、武帝郊外市場のように生計目的によって、必然的にわき起こってくる活気と、現代都市の演出されたレジャー気分の白けた活気とが、甚だしく異なるのは当然だといえる。
 現代都市に設えられる享楽的市場は、私が理解している交換という市場概念と照らし合わせれば、インチキといってよい。商いにインチキは昔からつきものだから、あえて異は唱えないが・・・・。
 
1999年8月撮影.
EOS3,F3.5-5.6/EF28-135mm,コダクロームⅡ.
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Village Design12.雲南省・路南イ族自治県

2007年10月27日 | field work
 石林郊外の集落の続きである。最高実力者鄧小平が実行した 改革開放政策によって、中国社会は市場経済国家へ大きく舵をきった。鄧小平の死から2年後に私達は、雲南省の集落を訪れたわけであるが、市場経済国家への足取りが大変早いことを実感した。都市では、古い街区や市場が取り壊され、その跡地に新しい超高層ビルが林立する状況だった。郊外に行けば高速道路が整備途上にあり、集落の道路は舗装され、電気が通り、次第にコンクリートの建物が立ち、また観光地では少数民族の伝統文化自体が、テーマパークとして資源化されていた。中国は、もの凄い早さで変わろうとしている。地域格差が激しい地方集落でも、変化の兆しが見られた。私達が訪れた時期は、中国社会の変わり鼻だったのである。
 観光地石林から外れた、一般的な農家集落で撮影していたら、ここで生活している少数民族と出会った。その顔には、一見して険悪な表情が漂っていた。「写真を撮るな!」という怒りのしぐさであったし、上の写真のように顔を背けられたこともあった。当時個人的には、裸足で歩いてくる姿を見て、古風な風景だと思いつつ撮影したのだが、相手はそんな悠長な認識ではなかった。
 昆明から石林迄は、高速道路がある。この集落の近く迄、都市文明が入り込んでいる。いやがおうでも都市文明と集落の生活とが対比させられる。それまで彼等が気付かなかった、「都市と比較すると自分たちは貧しい」とする意識が、過度に際だち、顕在化されてしまったのではないか。それが彼等のきつい怒りの眼差しの原因だと、私は解釈した。都市化によってこの集落に持ち込まれたのは、便利な文明だけではなかった。彼等がそれまで体験しなかった非情な価値観や現実認識迄もが持ち込まれたのだ。そのことが彼等にとって幸せだったかどうかは、通りすがりの私の立場では、わからない。
 
1999年8月撮影.
EOS3,F3.5-5.6/EF28-135mm,コダクロームⅡ.
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Village Design11.雲南省・路南イ族自治県

2007年10月26日 | field work
 集落という視点から環境美を探訪することが、今回のデザインサーベイの目的だから、ガイドブックで紹介している名勝史跡といった中国の観光地は、日本の観光地同様に私達にとっては退屈である。従って私達は、そうした観光地には、ほとんどゆかなかった。例外的に訪れた李子箸石林は、秋吉台を大規模にした石柱群による地形が特徴である点で、よく知られた観光地だが、私達は、早々にここを退散し、周辺の少数民族が棲んでいる集落を探した。
 上の写真は、比較的平坦な土地に立地している農業を営む数十戸程の集落である。民家の壁は土壁であろう。或いは日干し煉瓦で壁の芯をつくり、その上に土壁を塗っているのかもしれない。民家蔵から収穫したばかりの唐辛子が見えた。広州の四川料理では、かかせない食材だ。集落内の路地は、私の登山靴でようやく歩くことができる程、ぬかるんでいる。各民家は、密に固まり、建築群として大変魅力的な景観を形成している。
 牛を十数頭つれた農民が、私達の前を横切り、畦道に入っていった。畦道の先をみると、比較的新しい電柱が立っていた。石林とはそんなに離れていないこの集落には、近年まで電気がなかったのだろうか。
 この集落の中にに、写真で見られる付随屋が複数建てられている。軒下付近に風抜きを持つ構造は、薫蒸のための小屋と聞いた記憶がある。しかし何を生産してるかは、民家群の美しさに見とれていたので、私は記憶にない。この地域の暮らしは、決して豊とはいえない。厳しい生活のために設えられた全ての民家には、一寸の無駄も許されない。こうした生活の必要のなかで、一切の無駄を排除し形成されてきた民家群は、大変美しい。現代建築のデザインにも通じるこうした民家群の美しさに、私は大いに感動した。
 
1999年8月撮影.
EOS3,F3.5-5.6/EF28-135mm,コダクロームⅡ.
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Village Design10.中国雲南省・武定郊外

2007年10月25日 | field work
 ベトナムと国境を接する中国雲南省の首都が、横浜市と同規模の人口300万人が暮らす昆明市である。この地域には、約50の少数民族がそれぞれ独自の生活様式をもって暮らしている。本来は、小さな多民族国家の集まりといってよいだろう。
 我々は、昆明市から北西へ高速道路を1時間程走り、武定という小規模な町の文化財研究所で郊外集落の存在を尋ね、さらに悪路の山道を2時間ほど走り、少数民族の集落にたどり着いた。調度、市が立っている日だった。着飾ったイ族やミャオ族といった少数民族と露店で小さな集落は、相当な賑わいを見せていた。人と人とが出会い、語らい、商い、交換し、飲み、食べ、くつろぎ、馬車が駆け抜ける、臭いや喧噪や雑踏といった言葉を掛け合わせたような田舎の大宴会と言ってよい。お祭りのときのような賑やかな空気がビンビンと肌に伝わってくる。 この地域の暮らしを支えている生活市場だ! 市が集落の中心であり、暮らしの必需品であり、娯楽の場である。
 私達のように明らかな異邦人と見える格好をしていても、市の雑踏に飲み込まれてしまい、なじんでしまう。元々ここは異邦人ばかりなんだ。なんでもかんでも飲み込んでしまうところに市が成立している。この市に存在しないのは排他性だけである。 
 そこが日本人や日本の市場と大いに違うところだな! 私は、大陸の中に来ているということを実感した。
 
1999年8月撮影.
OLYMPUS,XA-4,F3.5/28mm,コダクロームⅡ.
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Village Design9. 北小松

2007年10月24日 | field work
 司馬遼太郎の長編歴史紀行「街道をゆく」(注1)は、湖西のみちからはじまる。冒頭の章である「楽浪(さざなみ)の志賀」とは北小松周辺のことを取り上げたものである。冒頭の章を引用する。
 
「近江」というこのあわあわとした国名を口ずさむだけでもう、私には詩がはじまっているほど、この国が好きである。
 
 朝鮮半島に存在する同名の地名であり、この地域でも古くから呼び習わされている「楽浪」という枕詞。この地方に多数ある朝鮮式の古墳群。大陸からの渡来人。渡来人の村出身であり、天台宗を開祖し比叡山延暦寺を建立してきた最澄。この地方特有の石垣や石積みのうまさ。こうした幾つかの史実を語るキーワードが冒頭の章には、ちりばめられている。それは大陸と日本という司馬特有のダイナミックな歴史観を、これから語ってゆこうとする布石だと私は理解した。司馬長年のテーマの1つである「日本人は何処からきたのか」。これを解く手かがりがこの地方にはある。そのことが司馬を、この国すなわち近江が好きであると言わしめているのだろう。
 志賀町史[注2]には、小野神社古墳をはじめとする多くの古墳群の存在や、古代史資料に登場してくるこの地域の記述などを明らかにしている。律令時代にはすでに豪族らによる支配確立が伺えるなど、この地域沿革の歴史の長さが伺える。同町史は、1634年(寛永11年)の石高を記載しているが、北小松は1,076,420石と、この地域最大の農業生産地であったことがわかる。
 北小松は、現在大津市に編入されている。湖西地方のいくつかの集落を尋ねていると、隣接京都が平安時代の、新都だったことを実感する。それ以前からこの地方では、大陸から渡来してきた古代人が、この地での暮らしを長らく築いてきた。湖西地方の濃厚な古代史の臭い。臭いの先には大陸がある。それを感じさせてくれるところが湖西地方の魅力なのである。
 
 注1.司馬遼太郎:街道をゆく1.甲州街道、長州路ほか,朝日文芸文庫,1978.
注2.滋賀県市町村史編さん委員会:滋賀県市町村沿革史,非売品,1967.
 
2007年8月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design8. 勝野

2007年10月20日 | field work
 内湖について、もう一つ記述する。JR近江高島駅近く、勝野地区の乙女が池も内湖である。ここは都市公園として整備されているため、自然景観とは言い難いが、比較的おおきな内湖である。
 内湖については、滋賀県琵琶湖研究所[注1]によれば、多くの貴重な水生生物が分布し、琵琶湖への種の供給源としても重要な意味をもちつつ、その実体は明らではなく、他方外来魚(ブラックバス、ブルーギル)の定着と増加によって、フナ、タナゴ類などの在来魚が減少し、従来の生態系が回復できない要因となっていることが指摘されている。
 上の写真は、乙女が池であるが、正面の集落の裏は、旧道と湖岸道路が走り、その先が琵琶湖になっている。琵琶湖は、古来より地域生活に利用されつつ、近年の地域開発や生態系の変化を受けて病んでいるように思われる。身近なところでは、生業である釣り客誘致のために放流されたのであろうか、侵略外来魚の定着により琵琶湖のニゴロブナは、激減している。これを用いた琵琶湖の珍味とされた鮒寿司は大変高騰し、簡単には食べられない。生態系の変化を、食に結びつけるというのも、ひんしゅくを受けそうな発想だが、やはり環境に対する影響は、眼に見える以上に大きいと推察する。地域振興による雇用創出や生活の利便性と引き替えに、生態系の変化と食をはじめとする地域固有の文化を失ってゆくのであれば、一体何のための振興施策だったのかと思う。
 湖岸道路では、日本海の魚貝類を積載した数多くの大型トラックが、関西・中部方面を目指して、制限速度の限界で走り抜けてゆく。これらが運ばれて行く大都市では、新鮮な魚貝類が店舗のセールスプロモーションとして取り沙汰されている。我々も都市にいて新鮮さを味わうことに何ら疑問を、感じないで消費している。こうした物流ルート沿いに立地する湖西地方の集落では、見返りとして行政が地域振興施策を展開し、駅前には物産館が建ちもするが、訪れるビジターは皆無に等しい。私が借りたレンタサイクル施設も閑散としており、利用者は日に10人といないだろう。このような湖西地方の様相をみていると、私達現代社会の基幹構造自体が病んでいることを伺わせる。生態系や地域といった弱いところが、真っ先に悲鳴をあげた。それは、将来の都市社会や生活に対する警告とも受け取れるのである。
 
注1.http://www.lbri.go.jp/activity/rsh2003-j/futureplan-j.htm
 
2007年8月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design7. 今在家(横江浜)

2007年10月19日 | field work
 南舟木を下ると今在家という集落がある。この集落の特徴は、琵琶湖と中湖(ないこと言う)の間の細長い、浜堤上に立地していることだ。写真左側の民家の裏は琵琶湖、右側の民家の裏は松の木中湖に面している。地形図[注1]をみると、集落の両端が、これらの湖に挟まれた狭隘な土地に集落が立地している特徴がよくわかる。中湖と琵琶湖とは水路でつながり、中湖自体が良好な船着き場として利用されている。こうした特徴的な地形に集落が立地していることは興味深い。 
 最近のアメリカ・ニューアーバニズム住宅のデザインみても、ビレッジの両端が水辺に接するといった立地は、私の記憶にない。唯一リゾート地であるスペインのコスタ・デル・ソルが道沿い両端の建物の背後に、それぞれヨットハーバーを設けた堤上のビレッジを、大規模に連続させた配置としている。在家は、規模の違いがあるが環境形成という視点では、こちらに類似している。
 安曇川町史[注2]によれば内湖は、琵琶湖の沿岸流によって湖岸に土砂が堆積したことによって、本体の湖から半ば区切られて形成された湿地帯や遊水池であり、集落や条理制遺構が湖岸付近の湖底に水没しているなどから、過去に琵琶湖の異常水位変動があり、そのため内湖が遊水池としての役割を果たしてきたことを記している。明治期に南郷洗堰が建設され、琵琶湖の水位変動による水害もなくなり、干拓化が進んだため、消失した内湖も多く、現在では23箇所[注3]だけである。
 では今在家は、何故琵琶湖と内湖の間に立地したのだろうか。これに関する記述は、もう少し詳しく調べてみないとわからない。居住性よりは作物の収穫が優先された結果ではないかと、私は推測している。開墾された平坦な土地は、収穫量を上げるために作物用途として最大限に使用され、作付けできない浜堤上に住まいを構えた。湖に接しているから漁も可能である。といったところが、フィールドを歩きながら考察した点である。
 私が尋ねたときは曇り空であったが、今在家の居住者によれば、この辺は景色がとても良いという話であった。民家の隙間からは琵琶湖を望み、田園風景と琵琶湖固有の景観要素である中湖の背後には、比良山系の北端がそびえる様相は、季節や光次第では、美しい風景であることを想像させてくれる。
 
 注1.国土地理院地形図1/25,000,勝野.
国土地理院が試験運用している地図閲覧サービスのURLは以下.
http://watchizu.gsi.go.jp/index.aspx
注2.安曇川町史編集委員会:安曇川町史,安曇川町役場,1984.
注3.滋賀県琵琶湖研究所公表値による.
 
2007年6月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design6. 南舟木

2007年10月18日 | field work
 前に紹介した北舟木から安曇川(あどがわ)を渡ると、南舟木という集落がある。地形図で見ると安曇川を挟んで、琵琶湖と平行に翼をひろげたように、これらの集落が配置されている。こうした配置形態は、20世紀にルシオ・コスタがデザインしたブラジルの首都ブラジリアを思い出させる。人造湖に面するといった立地も類似している。といって安曇川の集落は、それに比べれば規模は、比較にならないぐらい小さいのだが歴史は、はるかに古そうだ。風土が異なりながら配置形態の類似性がみられるといった事例は、世界的にも幾つか散見すると記憶しているが、集落や都市の形態の背後には、形態を成立せしめている必然性なり要因があると考えるのが、私達環境デザインを専門とする立場では、一般的な認識である。そうした形態の背後を探ってみよう。
 安曇川町史[注1]では、荘園化して舟木の荘などの成立をみたと記載されている。荘園とは、奈良時代後期から鎌倉時代まで続いた貴族の農園であるから、中世には、舟木という集落が成立しており、長い歴史がある。さらに同史は、「近世から明治期にかけて新田開発が進み、・(略)・・南舟木・・を除いては、ほとんど村高に変化がなく、ほぼ同じムラ規模を保って今日に至っている」とする記述から、南舟木は、近世以降に規模拡大し形成されたとみられ、北舟木よりは新しい集落だと解釈した。地形図[注2]でみれば、翼の左右が、 歴史の大きな時間差によって新旧の形状を装ったとイメージすればいいのだろうか。さらに舟木を始めとする安曇川の集落は、湖流が土砂を運搬し堆積してできた浜堤の上に立地し、排水、かんがい、土盛りの技術開発によって農耕地を開拓し、発展してきたことが記されている。
 同史は、安曇川(あどがわ)という町名の読み方にも言及し、古くは、安曇(あど)(あずみ)は、古代の海人(あま)族[注3]の名であったと記している。また2〜3世紀頃の漁網に使ったとされる土製の沈(しずみ)が出土し、当時既に古代人の生活があったことが記述されている。
 従ってこの地域は、古代から琵琶湖の漁による生業が可能となるなど資源に恵まれ、生活できる良好な環境があり、そうした環境の良さに着目した中世豪族が、開墾技術開発を伴って安曇川流域に荘園を築き、この地域の基盤を形成してきた。今眼前にみられる舟木の集落は、そうした豪族ら館の末裔なのだ。これら集落は、こうした歴史的必然性を持って配置されてきたのだと私は解釈した。
 私が地形図のなかから抱いた、この集落に対する興味や、実際にこの地を尋ねた際に感じた集落景観の魅力の背後には、歴史的必然性が存在していたのである。これこそが、配置といった形態的魅力を形成している要因だと、私は思う。形態や景観などに代表される表層は、歴史的必然性といった深層要因によって成立しているのである。ものごとの表面だけ見たって何もわからない。表層は、深層を暗示している手掛かりなのだろう。
 
注1. 滋賀県市町村沿革史編さん委員会編:安曇川町誌,非売品,1967.
注2. 国土地理院地形図1/25,000,勝野.
注3:縄文・弥生時代以前から海辺で棲息していたとされる 日本人の源流。物部氏はその典型例といわれている。
 
2007年6月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design5. 北舟木

2007年10月15日 | field work
 湖西地方の地図をみると、琵琶湖に円形状に突き出た特徴的な地形がある。長年安曇川によって運ばれてきた土砂や礫が堆積して形成されてきた平野部、デルタファン(三角州)である。現在もなお安曇川によって土砂や礫が琵琶湖湖底に堆積し続けていることを安曇川町誌[注1]は記している。
 同町誌によれば、このデルタファン(安曇川デルタと呼ぶ)が、この地域の人々の暮らしや生態や景観を形成してきたことがわかる。暮らし面では、安曇川の支流と扇状地特有の伏流水とが、田畑のかんがい用や生活用水として利用されてきた。このブログでも前述した新旭町針江地区の「かばた」における豊富な湧水も、こうした伏流水によるものである。通例扇状地は、農作物の生産にとって良好な土壌にも恵まれているので、水利と合わせて、この地方有数の穀倉地帯となっている。まさに安曇川デルタの上に、この地域が成立しているのである。
 生態面では、比良山系の北端から河口まで約15kmと、短い範囲で高低差があるため、限られた環境にミズナラ林やコナラ林を中心とする山地帯、アカマツ林やシイ林で構成される低山帯、平地林であるハンノキ林、ヤナギ林、落葉低木林などの低地帯とに区分された植生帯がみられる。湖岸には、比較的規模の大きいヨシ原、ススキ葦原が広がり、陸地と水系との境界域に広がるエコトーンは、この地方の湖岸景観の特徴となっている。こうした陸と湖水とによる多彩な環境は、他方サギ、チドリ、ユリカモメなどの野鳥の生息地となっていることが記されている。
 こうした植生を、代償植生という。代償植生は、人々が住みつき、様々な人為的干渉によって、本来の自然植生が破壊された後に、人々の生活と自然との相互関係性の中で、長い時間を経て形成されてきた人為的植生である。社会的には、代償植生帯を里山と呼んでいる。滋賀県に住みついたフォトグラファーが制作した作品集[注2]をみると、安曇川を含む湖西地方が日本有数の豊かな里山地域であることがわかる。
 安曇川の河口部分、琵琶湖の湖岸沿いに川を挟んで、北舟木、南舟木という集落地区がある。これらの集落を尋ねてみたいと思ったのは、国土地理院の地形図[注3]を見ていたときであった。何故こんな湖の際に、集落が立地しているのだろうと思った。湖岸に立地している2つの集落配置は、環境デザインの視点から見れば、創造力をかき立てるとても新鮮なサイトプランに思われた。こうした立地形態には、この地域固有の風土的必然性があるのだろうと類推した。それがこの地区を訪れるきっかけだった。上図は、安曇川橋上から撮影[注4]した北舟木の集落である。この地域は、観光ガイドブックには記されず、およそビジターが訪れることが少ないであろう。だが実際に舟木の集落を歩くと、Village Designのエッセンスが凝縮されていることを、私は体感した。これが人々が、暮らしている環境なんだという実感を。
 
注1.滋賀県市町村沿革史編さん委員会編:安曇川町誌,非売品,1967.
注2.今森光彦:里山物語,新潮社,1995.今森光彦:里山の道,新潮社,2001.を始め多数.
注3.国土地理院地形図1/25,000,勝野.
注4.2007年6月撮影.
 
2007年6月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design4. 竹生島

2007年10月14日 | field work
 琵琶湖には3つの島がある。今なお人が住む沖島、そして多景島、琵琶湖北端に位置する竹生島である。竹生島は、中世以来、西国三十三所観音霊場として多くの参詣客が訪れ、竹生島神社と国宝唐門を始め多くの文化財を有する宝厳寺(竹生島観音)があり、付近の湖底からは、縄文・弥生時代の土器が引き上げられるなど歴史は相当に古い。個人的には、湖の中にある島という地形が、大変興味深い。
 竹生島全体は、南面の寺社周辺を除けば、上図(撮影:2007年4月)のように、立ち枯れた樹木群による特異な景観を呈している。こうした原因は、2万羽以上と推測されるカワウが生息していることにより発生してきた糞害によって引き起こされたものである。島の至る所が、糞で白くなっている。本来カワウは天敵を避け樹上営巣が基本的生態である。竹生島では、天敵の少ない島という立地が災いし、安心して地上営巣による繁殖が盛んになり、結果として大きなコロニーができあがってしまったのである。カワウ自身が選んだ繁殖地が、自分たちの大量の糞によって覆われ、樹木が枯れ環境が破壊されているのである。
 カワウが放つ大量の糞は、やがて土壌を肥やし、植物の生育を促す肥料となり、将来森が復元するといった考え方もある。だがそれは、カワウ・コロニーの規模と、島という限られた環境の許容量との駆け引きだろう。許容量を超えれば、カワウは他の土地へ移動してゆくだけである。
 生物が繁殖するといったこと自体、環境の許容量を越えれば、環境破壊なのである。環境の破壊者は、人間だけではなく、人間以外の生物にも該当する。そうした生物によって破壊と復元を繰り返してきたのが地球環境の歴史と理解する方が論理的だろう。
 私達の日常生活の場面では、「環境を守ろう!!」、「良い環境を子供達に残そう!!」といった脳天気な標語を数多く眼にする。特に「子供を安心して育てられる環境づくり・・・」のくだりを読むと、カワウの地上営巣と似ている。 こうした自治体などが掲げている標語を読むと、日本人の環境に対するご都合主義的姿勢や、生態系に対する不勉強且つ無知だけが目立つ。環境に対する日本人の無知の構図は、いつまで続くのだろうか。 環境を守ろうとするのであれば、生態系の構造を勉強し、適切な理解と認識を形成してゆくことから始めるべきである。
 私達は、人間の生活自体が環境破壊を前提として成立してきたことを認識すべきだろう。環境は、その復元力を越えて破壊してはならないことは、環境を利用する人間にとっての前提条件である。だからこそ、従来の日本では、復元できる範囲での、生活の知恵や作法といった環境とバランシングできる技術や方法が、生活の中で生まれ継承されてきたのである。
 
2007年4月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design3. 菅浦

2007年10月13日 | field work
 リゾートという言葉に対して、リトリートという言葉がある。隠れ家という意味だが、奥琵琶湖北端に位置する上図(撮影:2007年4月)の西浅井町菅浦地区は、こうした言葉があてはまる。JR湖西線永原から、日に数本のバスか自転車で、湖岸道路を下ったところに突然現れる唯一の小さな集落である。
 滋賀県立図書館で調べたところ、西浅井町誌が発行されていないので、この集落立地の由来は、類推で述べる他ないだろう。奥琵琶湖自体が日本海側気候の影響をうけるので、冬は、当然地域相応の積雪がある。菅浦は、北側を山に囲まれ南面して立地しているのだが、この山間のわずかばかりの平坦な微地形から察すると、この一角だけ積雪量が少ないと私は推測した。積雪量の少なさと流通路としての琵琶湖が通年利用できるところから、この陸路と海路の接点に集落が発生してきたと推測している。集落には,800年前の古文書が発見されたというのであるからして、歴史は相当に古い。
 菅浦の民家は、瓦屋根、紅殻格子や柱、焼板で囲われた壁と、滋賀県に多くみられる建築様式である。琵琶湖の気候の影響に対応し、紅殻や焼板は防腐剤の役割を果たすなど、この地域の風土に適合した建築様式である。こうした民家が、集落内の路地沿いに並んでおり、妻面を湖に向けて配置している景観は大変美しい。
 菅浦の民家は、釣り客相手の旅館と、農林漁業を生業としているのだろう。生業自体が、そんなに活発にはみられないので、山間に静かに潜むという趣がある。都会人の意識で見れば、世間から身を引き静かに暮らすには、この交通の不便さが幸いし、あまり人が訪れない故に、リトリート性があるのだと考える。唯一のビジター用施設は、国民宿舎つづらお荘があり、ここの地場料理は、地域固有の味覚がある。
 こうした菅浦のような、隠れ家的集落が日本には、今なお数多く存在している。その殆どが交通不便であり、自動車がなければ行くことができない。従って集落で暮らす人々にとっては、自動車は生活必需品である。他方都会人にとっての自動車は、集落ほどの必然性は希薄であり、実際に物臭性、ステイタスないしは見せびらかしの所産でしかなく、その行動も通俗的範囲に限定されている。例えば、未だ知られていない集落を探して林道を4輪駆動車で走り回る等といった体験(本来ならばこうした活用をしてこそ、自動車の価値があるのだが)、活かし方をする人は大変少ない。都会人がやることは、4輪駆動車であっても、売ることを前提としボディに傷がつくことを懸念しているようでは、プロダクト本来の目的を逸脱している。アウトドアといっても、要はセールストークの言いなりされたファッションでしかない。
 菅浦の対岸にある海津大崎は、全国桜100選に選ばれた名所があり、自動車で訪れる観光客が大変多く、そのため交通規制が不愉快なほど厳しい。だが、彼等が菅浦まで足を伸ばすことは、まずない。えてして彼等は、自動車があってこそ訪れることが可能となる未知の体験には、興味がないと言うのが内実であろう。そんな自動車族のメジャー志向と無知・無関心のおかげで、菅浦は今なお隠れ家的たたずまいが持続しているのである。
 菅浦の正面には、三角形の地形がシンボリックなランドマークとなっている、竹生島が眺められる。
 
2007年4月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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Village Design2. 針江

2007年10月10日 | field work
湖西地方は水利がよく発達した地域である。現在の滋賀県高島市新旭町針江地区の集落を尋ねると、自然を活かした人々の暮らしの知恵を体感することができる。
 それは豊富な湧水を家の中に引き込んだ「かばた(川端)」と呼んでいる古くからの台所を設えている民家が数多くある。上図(2007年4月撮影)は、ある民家の典型的な「かばた」である。その仕組みは、湧水が中央の亀に溜められる。湧水は、夏は冷たく冬は暖かい一番綺麗で美味しいこの地区固有の天然水である。飲み水や調理や風呂などの生活用水使にわれる他、西瓜を冷やすといった具合に冷蔵庫としても利用されている。亀からオーバーフローした湧水は、周囲の坪池へ流される。
 坪池は集落内部に設けられている水路から導水されている。坪池では野菜や食器を洗うといった具合に、使い分けがなされている。坪池には、必ず鯉やブナが棲んでいる。洗い落ちた野菜屑や食器についた米粒等はこれら魚の餌となり、食器も池も綺麗に掃除してくれるのである。このように自然を巧みに利用してゆく優れた生活の知恵が、昔から受け継がれてきたのである。針江地区の人々は、現在でもかばたを生活に利用している。余談だがこの地域の料理で「しょい飯」は、ご飯に醤油をかけたものだが、素朴且つ美味である。
 かばたは、自然と人間とのエコロジカルな関係性を示唆している大変優れた生活の知恵の1つである。日本全体に眼を転じれば、古くからの集落・民家における人々の暮らしは、実はかばたでみられるように、自然を活かしたエコロジカル・ライフスタイルの集積だったのである。
 今私達の過半は、こうした古来から引き継がれてきた暮らしの知恵が集積したエコロジカル・ライフスタイルを捨て、都会に住み、大量消費社会を受け入れつつ、皮肉なことに地球温暖化といった新たな環境問題に直面している。都会人の環境問題に対する意識は高まりつつも、ではどうすれば現代社会に於いて、自然と人間とが最適な関係性を築くことができるのか、といった実践的な暮らしの知恵や方法が、私達にはない。現代社会であるのは、せいぜい頭でっかちの環境意識と法規制だけである。環境問題は、生活実感の伴わない環境意識と法規制だけでは解決できないと私は、断言しておく。
 古くから引き継がれてきた自然を活かしたエコロジカルな暮らしの知恵にこそ、現代の私達が学ぶべき要素は多いのである。だかそうした知恵は次第になくなりつつある。だからこそ、集落・民家を訪ね歩き[注]、エコロジカルな知恵の伝承者に静かに学べ!!と、私は声を大にして言っておく。
 
注:かばたは民家の中にある。 針江地区の人々の生活を侵害しないためにも、 外部の者が勝手に地区や民家の中にはいることはできない。外部からの見学者は、必ず針江生水の郷委員会が指定する見学日に、事前に予約をすること。そうすれば地区のボランティアが、最適な場所を案内してくれます。
 
2007年5月撮影.
FinePix S5pro,DistagonF2.8/25mm.
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Village Design1. 湖西地方

2007年10月09日 | field work
 21世紀の私達の暮らし方について、不定期であるが考察してゆきたい。というのも、20世紀、1970年代以降、全国の自治体をはじめとし、街づくりプロジェクトが盛んに行われてきた。実際に中心商店街を主な整備対象として、拠点的ではあるが多くの整備が実施され、快適性や賑わい性ある都市魅力を形成してきた。先駆けプロジェクトとしての横浜伊勢佐木町モールや横浜元町商店街、さらに神戸三宮界隈、或いは滋賀県長浜市の黒壁スクウェア、伊勢おはらい町おかげ横町、青森市新町商店街・・・といった具合に成果をあげてきた街も多い。
 そうした街の中心が整備される一方で、私達の暮らしの中心である住宅街はどうなったかといえば、実は商店街ほどには整備されていない。もちろん住宅自体が個人資産であるために、公共事業は、せいぜい街路と緑化環境の整備に留まらざるを得ないといった制度上の限界がある。しかし実際の住宅街を見れば、1つ1つの個別的な住まいは、よりよくデザインされたものがあるが、それらが集合した住宅街の景観全体という視点で見れば、一部地域を除き個人の思惑が表出し、多様性ある統一や住宅街としての個性形成、環境魅力の創出には至らない。居住者も個人の住まいが不自然でなければ、住宅街全体がどうなろうと関知しないというのが現実である。そんな住宅街が実は日本の殆どなのである。
 そこで21世紀は、私達の日々の暮らしの場である面的広がりを持った住宅街を、そろそろ本格的に整備してゆく時期だと私は考えている。私はそれを「むらづくり-Village Design」と呼ぶことにする。まちづくりよりも、小さい生活スケールの単位をさぐると、「村」という生活原単位があった。まちづくりから、むらづくりの時代、それが21世紀の整備課題であると私は考えている。
 上図(撮影:2007年5月)は、琵琶湖西岸を走るJR湖西線、近江舞子以北の風景である。今なお開発で荒らされていない、湖西地方に残されている優れたエッセンスを尋ねつつ、これからのVillage Design の知見としたいと思う。
 
2007年5月撮影.
FinePix S5pro,DistagonF2.8/25mm.
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