Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし270. ネチネチと!

2010年03月31日 | Kyoto city
 ここ二日ほど花冷えだった。昨日の朝起きたら、車や屋根に僅かばかりの雪が積もっていた。夜半の気温が低かったので融けなかったのであろう。
 先日の随心院の梅園では、今年最後の梅の花が僅かばかり残っていた。この時は、歳をとると共に去って行く人の方が多くなり寂しい季節である。そう思っていたら「都落ち」と言う言葉を思い出した。
 京都も、古来から多くのいにしえ人達が都落ちをしていった。その代表は、紀貫之であろう。彼が都落ちして書いた「土佐日記」は、我が国の日記文学のはじまりとされている。今では、当時権勢を誇った藤原氏に対するネチネチとした彼の気分或いは愚痴がこめられているとする理解もある。
 だから往事の日記文学は、今で言えばブログだと解釈することもできよう。とすればこのブログも、どこかネチネチしているのも、筋が通るのだろう。もちろんこのブログを文学にしようなどという壮大な志は、私にはないが。
 三月も今日で終わりである。ただそれだけのことなのだが、誰しもの心に寂しさが残る季節の変わり目である。
 
京都市山科区,随心院,撮影日2010年3月28日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/570,絞りf5.6,焦点距離85mm,ISO100. 
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京都暮らし269. 花冷え

2010年03月30日 | Kyoto city
 昨日の京都は、夕方から雪が舞っていた。雪は夜半まで続いたようである。市内の桜の開花も少し足踏みするだろう。この時期にグンと寒い日が訪れる花冷えである。それは、陽気が変わりやすい自然の摂理を表した昔からの言い方でもある。
 なかなかオーバーが手放せない、或いは春の装いなのに、突然の寒さで風邪をひいたというのも、この花冷えによるのだろう。こうして暖かさと寒さの一進一退を繰り返しながら春に近づいてゆく。
 昨日は寒かった。それ以上に何も書くことがない、退屈な日々であった。寒かったので、夕べは「井傳」の茶碗蒸しをすすっていた。美味だねと思いつつ・・・。

京都市,平野神社,撮影日2010年3月26日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/250,絞りf5.6,焦点距離78mm,ISO160.
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京都暮らし268. はねず踊り

2010年03月29日 | Kyoto city
 昨日は午前中、小野小町ゆかりの寺、随心院へ「はねず踊り」を見に出かけた。小学生達による舞いである。いかにも春の到来を思わせる雅な京都の踊りを感じさせてくれる。
 上品な赤という色が、これほど似合う行事もないだろうと思わせてくれるぐらいに、赤い色の饗宴である。この画像の中だけでも20色以上の、大変美しい赤系統の色が使われている。特に着物の赤が3~4色もあり、それらが微妙に違うというのは、粋でさえある。小学生だから暖色が大変似合うのだろう。
 赤という暖色は、人間の眼で識別できる色数としては5,000色ある。そのなかから、この赤を選ぶというのは、やはり都人達の感性なのだろう。
 古来から日本人は、赤という色を好む。それも大変美しい赤である。ところが、私が仕事でつきあう名古屋の技術屋達は、赤という色の使い方が大変下手であるという経験を私は持っている。彼らは赤と言えば、5,000色ある暖色系の色の中から12色絵具の赤を連想するらしい。それはステレオタイプ化した大変貧しい感性である。
 実をいうとこのビビットトーンだけが納められた12色絵具或いは12色色鉛筆セットというのが大変曲者なのである。私がデッサンをするとき、絵具は必ず混ぜて使うのが常識である。そしてまず12色絵具のビビットトーンを使うことはない。自分が使う色だけをバラで調達するからだ。だから文房具屋で売っている12色絵具セットは、まず使い物ならない。
 例えば黄色いレモンを描こうとする。そのとき私は茶系や朱系の色を最初に使う。そして淡いイエローをその上に重ねるのである。そうするとレモンのふっくらした量感が表現できるのである。こんな技を書き出すとキリがない。
 まあそんなことはおいといて、この寺は梅園もあり、なにかと暖色系が目立つ。小野小町ゆかりの寺という華やかさが漂っている。

京都市山科区,随心院,撮影日2010年3月28日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/320,絞りf5.6,焦点距離85mm,ISO100.
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京都暮らし267. つかの間の休暇

2010年03月28日 | Kyoto city
 修了・卒業式が終わると、さすがに大学の仕事も少なくなってくる。私の方の仕事も全部片づいたと個人的には、思っている。そんなわけでブログも休暇状態である。春の休暇といってよいだろう、といっても来週もつまらない用事で大学に行くことがあるので、つかの間の休暇だが。
 つかの間の休暇だが、京都の桜は着実につぼみを膨らませているだろう。個人的には、今年は冬を楽しみそびれた春である。1年間の決算だから、いろいろ書くことが頭に浮かぶが、まぁいいか、という気分の方が強い。そうして季節が移り変わり、書こうとしたことも頭の中から消えてゆく。日本人は、毎年そんなことの繰り返しなのだろう。
 こんな休暇状態では、このブログも書く意欲もない。話題はマニアックに飛躍するが、最近期待していた新機種のデジタル一眼レフも出ない。近年激しい進化を続けてきたデジタル一眼レフも、そろそろ完成期なのだろう。その後はしばらくないよ、とでもいいたげなメーカーのWEBサイトだ。それとともに、機材への関心も薄れてゆく。そんななかで、フィルム機材をもう一度使うかなという関心の方が高い。
 そしてiTunesから喜多郞のシルクロードが流れているので、どういうわけか、この時期にはこのメロディがよく似合うように思われる。時には悠久な流れを示すもう一つの目盛りがあるのだ、それを私達が知らないだけだ。そういいたげなメロディーである。

京都市,平野神社,撮影日2010年3月26日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/250,絞りf5.6,焦点距離85mm,ISO160.
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京都暮らし266. 桜の咲き始めの頃

2010年03月27日 | Kyoto city
 昨日は、一寸平野神社へ出かけてみた。早咲きの魁桜は満開だが、境内に多くある染井吉野は三分咲き位だろう。京都市内は、昨日まで連日雨日が続き寒かったので、開花も足踏みであった。だが来週に入ると一斉に見頃となるだろう。今日は天気が良いのだが、冬を思わせる寒さに少し戸惑う。
 話題は変わるが、最近推理小説中毒とでも言える症状があると思っている。つまり一冊を読み始めたら、次から次へと読み続け、おおよそ一人の作家の小説を大方読み尽くすまで中毒は続く。昔も森村誠一の推理小説を読みあげた事があった。
 最近は、西村京太郎である。この推理小説の過半は、百万分を超える出版部数を記録し、テレビで放映もされ随分人気があった。だから個人的には、それまで全く関心がなかったのだが、先日、時間つぶしに一冊読み始めたのが切っ掛けで、その後1日に1.5冊は読んでいる。彼の小説はブームも過ぎたのであるが、それでも書店やKIOSKにはまだ何冊か並んでいる。
 こうした推理小説中毒というのは、その作家の大方を読み尽くすまで続くので、当然多筆の作家でなければならない。西村京太郎ならば申し分ない多筆の作家である。この小説を1冊鞄に入れておくと、時間をつぶすのが大変楽になる。先日も試験の出題待機のために、3時間会議室で何もせず閉じ込められた。それは大変疲れる拷問のような時間だが、推理小説を読んで時間をつぶしているとストレスが大変少なくなるという利点がある。
 手元にあるちくま文庫の建築家レム・コールハースの「錯乱のニューヨーク」などは2/3位読んだところで、コールハースの書き方が大変くどいし、内容も結論までわかってしまったのでほったらかしにしてある。それを思えば、次から次へと読み続けられる推理小説というのは、ストーリーテーラーだと思う。

京都市,平野神社,撮影日2010年3月26日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/900,絞りf4,焦点距離16mm,ISO100.
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京都暮らし265. 春ですぅ!

2010年03月22日 | Kyoto city
 京都は、もう桜が咲き始めている。今年は暖冬だったこともあり例年に比べ開花が早いという予報。来週には見頃を迎え、4月に入ると散っているかなぁ。もし花見に出遅れたときは、平安神宮が他所よりは1週間程遅く開花するので、安心である。
 ところで一昨日は、2010世界女子カーリング選手権に少し見入っていた。私は、バンクーバーオリンピック以後、この種目が結構気に入っている。なんといっても選手の地顔がアップで長時間登場するという、どこかエンターテイメント的な放映に結構はまってしまった。つまりみていておもろいのである。それに選手達が青森という私の個人的思い入れある地名が潜在的意識を刺激してくれたのかもしれない。
 青森市というのは、このブログでもとりあげたが酸ヶ湯温泉の湯治場のように、まぎれもなく日本型リゾートの本質的姿が今も存在している。それだけ、東京や名古屋あたりの都会人が、都心型余暇装置のまやかしもので、安易に誤魔化されているように思われる。いまの時代精神からみれば青森市は知見がある。つまり賢い、ということだう。
 さて今日は、 開花した桜に見送られての 修了・卒業式である。学事では文字通り1年の区切りであり、巣立ってゆく人間達にとっては、社会的不況化のなかで向かえた、いくつかある人生の節目の一つである。最近雨の日が続いている。宮沢賢治の詩「アメニモマケズ・・・」かな(笑)。
  
京都市,高台寺,撮影日2010年3月23日
FUJI S5pro,Distagon25mm/f2.8
シャッター:1/250,絞りf2.8,焦点距離25mm,IS
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京都暮らし264. 冬の小さな旅36.

2010年03月22日 | Aomori city

 昨日のブログの俯瞰したモヤヒルズの風景のホンの一角を、アイレベルで眺めると、今日の画像になる。
 この位迄にスケールダウンすると、建築のデザインがとか、連続する家並みはとか、外壁の色はとか、周囲の風景との馴染み方はどうだとか、様々な人間が関わる或いは人間が視覚的に把握できる要素が多数出現し、理解も議論も評価もしやすくなるだろう。
 このスケールレベルになると、私は建築家と一緒に仕事をする機会が俄然増えてくる。ここでは、建築家の北山孝二郎さんと一緒に仕事をした。中央の大きな建物は、孝二郎さんのデザインであり、周囲の民間ヒュッテは、彼と一緒にデザインガイドラインを運用しながら、民間事業者の建築デザインをコントロールしつつ、全体として何とかまとまりある景観ができた。
 ここからさらにスケールダウンしてゆけば、完全に建築の世界であり、私が手をだす必要もなくなるだろう。このように、環境デザインが扱うスケールの幅は、大変大きい事が理解できるだろう。それだけに通例の一般人の生活感覚では体験できない視座や意識を、つねに持っているというのは、特異な経験というよう。そこに環境デザインの面白さもあるわけだが。
 さて、夕べの京都は、夜来風雨の声とでもいいたくなるような、激しく雨が音をたてて降っていた。風もどこか生暖かく、もう冬の気候ではない。冬の小さな旅シリーズも、今の気候とは合わない。来年の冬は、雪の湯治場へ行こうなどと思い、気が早いのだが冬を物色している。
 そんな冬の雪への未練を残しながら、京都の街の明るい光をみると、すこし心が浮き浮きしてくるあたりは、春だとおもう。桜が咲き、そして散り、すぐに新緑がやってくれば、もう初夏である。
 このブログも少しばかり静養したいと思う。

モヤヒルズ:2000年日本デザイン学会年間作品賞受賞

青森市,雲谷峠,撮影日2006年3月3日
EOS Kiss Digital ,SIGMA18-125mm/f3.5-5.6.
シャッター:1/640,絞りf16,焦点距離58mm,ISO400.

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京都暮らし263. 冬の小さな旅35.

2010年03月21日 | Aomori city

 青森市内から常に眺めることが出来る雲谷峠という小さな山がある。 私が青森市に関わったのは、この山麓に展開するスキー場の全面再生事業であった。画像は事業完成後に撮影したものだが、これだけ大きな空間規模になると、どこを整備したのかわからないぐらいである。それだけ環境の空間スケールは大きく、人間がこだわる喜怒哀楽のスケールが微少であることがわかろう。
 画面をよく見ると、スキーコースは新たに増設されており、夏期のオートキャンプ場や画面中央やや左下側のゲレンデフロントに微かに列状に見える陰のような建築群は、今回の事業で新築されたものである。環境を壊すなという発想で整備したこともあり、自然の中に静かに埋まっている。これが私の仕事としている環境デザインのスケールである。こうした環境のなかで自然保護と人間の活動との兼ね合いを土地利用に反映させ、施設の骨格やデザインガイドラインなどをつくり、これにそって事業を統括的な立場から進めてゆくプロデュースが私の仕事である。
 もちろん私の仕事としては、この事業は小さい方なのだが、それでもこれ位の規模でデザインを考えてゆくと、もう建築の個別的なデザインなどは過小な話になってくる。日常私達がいかに小さな狭い限られた視界でものごとにこだわり、認識し、考え、議論しているかがよくわかるだろう。
 私が扱う環境デザインのスケールというのは、これ以上の事が多い。建築や人間の存在は画面の些細な点にすらならないときが多い。

モヤヒルズ:2000年日本デザイン学会年間作品賞受賞

青森市,雲谷峠,撮影日2006年3月3日
EOS Kiss Digital ,SIGMA18-125mm/f3.5-5.6.
シャッター:1/1000,絞りf116,焦点距離109mm,ISO400.

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京都暮らし262. 冬の小さな旅34.

2010年03月20日 | Aomori city

 昨日は、大学から京都に戻るとき、何処か街が不機嫌のようだった。実際機嫌の人達が多く、3月から4月というのは、勤め人にとっては移動が多く、それがめでいた人もいるが、むしろ逆の方の人も多いのだろう。そういえば、私の所も一律に給料が下がった。私も不機嫌な仲間なのかも知れない。
 私は、急ぐ用事もなかったので名古屋から高速バスで帰ろうと思い、切符売り場に出向いたら最終便まで満席。金曜日は人の移動が多いようだ。やむなく、こちらも満席に近い「のぞみ」7号車のスモーキングルームで時間を過ごした後、イノダ珈琲で夕飯だった。空いているイノダでホット一息つく。そんな安らぐことができる喫茶店が最近少なくなってきた。
 今日の画像は、青森駅から5分ぐらい歩いたとろこにある古川市場である。ここも私にとってホット安らぐ場所である。地場の魚介類や農産物が一堂にならび、普段着のシズル感が漂ってくる。ときには、大きな鱈の解体!をしているところにも出会う。
 この市場の奥の細い通りに、屋台が少し建ち並んでいる。市場で働く人達のための飯処といったところだろう。店をのぞくと、おばちゃん達がつくったおでんや、七輪の上にのせられた焼き魚や、野菜の煮物やお新香、それにお握りや味噌汁といった具合に、地元で毎日食べる普通の食材が並んでいる。そこで私は、好きなものを買い集めて、店の前の傾いたテーブルで朝飯を食べることが多かった。屋外だから雪が降っている。足下も雪が固まっている。そんななかで、雪と一緒に食べる朝飯は大変旨かった。
 青森市の建築家が半分位あきれて私を見ていた。「こんなところで立ち食いみたいなのが旨いのですか?、私もここで今日生まれて初めて食べましたよ!!」。さもホテルにゆけば、ちゃんとした朝飯があるのに、と思っていたかもしれない。だか、こうした食べ方は雪国に来なければできないのよね。そこに旅の面白さがあると思うけどな。だから私は、無責任ながら雪の積もった青森の街が好きなんですよね。

青森市,古川市場,撮影日2006年3月3日
EOS Kiss Digital ,SIGMA18-125mm/f3.5-5.6.
シャッター:1/50,絞りf15.6,焦点距離34mm,ISO400.

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京都暮らし261. 冬の小さな旅33.

2010年03月19日 | Aomori city

 酸ヶ湯から背後の丘にあがると八甲田山が燦然と姿を現す。言い換えれば酸ヶ湯温泉は、丘の窪みに八甲田山から隠れるように構えている。多分火山だから、万が一の時を警戒しての建築的身の構え方である。それは、日本の集落が風土的了解の姿をとってきた姿と類似している。
 そんな話は置いといて、私は八甲田山の美景を楽しんでいた。ここから数キロ程のところでは、明治期に青森第5連隊の雪中行軍で200人以上の屈強な兵士が吹雪の中で遭難した事件が起きている。八甲田の気候は大変厳しい。
 私が車に乗っているときに「来た!」ということばに眼を前にこらすと、フロントガラスを目がけて大きな白い塊が静かにやってくる。地吹雪である。乳白色の地吹雪に囲まれると、周囲はおろか自分の足下すら見えなくなる。こうなると暫く車を停めておく他ない。天気がよければ地吹雪は10分もすれば通り過ぎてゆく。そんな気候の変化をドラスティックに感じさせてくれるところが、八甲田の面白いところである。
 そして5月下旬の新緑の頃になれば、まだらに雪が残る紫かがった八甲田山と青森の緑は大変美しい。あたかも信州の高原にいるような風景である。緯度が高い分、気候条件が近いのだろうか、それ故に植生も類似してくるのであろう。
 これが北海道に渡ると植生がガラッと変わり、大陸ですなぁーという風景になる。だから青森県は、典型的な日本の植生の北限だと個人的感覚では理解したいと思われる。雪かきをしないよそ者の無責任な立場から言えば、特に冬の雪が降った青森の風景は大変美しいと思う。

青森市,酸ヶ湯温泉,撮影日2006年3月4日
EOS Kiss Digital ,SIGMA18-125mm/f3.5-5.6.
シャッター:1/1250,絞りf18,焦点距離125mm,ISO400.

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京都暮らし260. 冬の小さな旅32.

2010年03月18日 | Aomori city

 余暇について私の研究室でも、ここ何年か研究を進めている。バブル経済の頃だったら引く手あまたのこの分野も、日本企業の多くが余暇事業から敗退を余儀なくされる現実をみると、今では不人気研究分野であろう。
 だからといって、日本人の生活行動から余暇活動がなくなったわけではない。むしろあらゆる生活行動が余暇的になってきたといえよう。例えばこのブログというのも、余暇ライフの重要なアイテムであることを思えば、余暇の構造自体が変わってきたと理解する方が自然であろう。
 日本の余暇開発の失敗点をあげると、ビジネス本意であることだ。けたたましい設備投資を行いその結果宿泊料金は大変高くなる。だから景気が悪くなるとビジターの足が遠のき、事業は四苦八苦となる。これは余暇を装置産業だと捉えたビジネスモデルの悪しき傾向だ原因だ。装置があれば、大いに余暇活動が発生するという考え方の方が明らかにおかしい。
 今、新しい余暇ライフの姿というものが、おぼろげながら私には見えている。そうした先には、何をどうればよいかという方法論がある。そして、厳しいことを言えば全てのリゾート地が可能性を持っているわけではない。だから私は、絞り込みをしなければと思う。絞り込んだリゾート地を丹念に育ててゆく努力を伴うからだ。
 さて難しい話になったが、従来のビジネスモデルだけでは成立できないところに、これからのリゾートの姿があるとだけここでは言っておこう。ただ一つあげておけば、余暇の動機はコミュニティというソフトな概念によって支えられているということだ。

青森市,酸ヶ湯温泉,撮影日2006年3月3日
EOS Kiss Digital ,SIGMA18-125mm/f3.5-5.6.
シャッター:1/800,絞りf13,焦点距離109mm,ISO400.

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京都暮らし259. 冬の小さな旅31.

2010年03月17日 | Aomori city

 酸ヶ湯温泉の湯治部に泊まったとき、四畳半の茶の間のような適度に狭い空間に親しみを感じた。脇には流しとキッチンがある。窓からは湯溜まりが見え、氷柱が下がっていた。素泊まりは料金もすこぶる安い。
 随分前に伺った話であるが、農家のオバハン達は、稲刈りが終わる農閑期になると旅支度で忙しい。それも、自家製の漬け物や乾燥物などをつくったり、愛用の鍋釜を持参したり、それにお米や味噌や醤油も必要だといった具合に大荷物になる。そして亭主や息子の車に積んで、普段着で出かける先は温泉地・自炊が出来る湯治場である。
 湯治場では、秋の紅葉を愛でながら温泉にたっぷりつかり一年間働いた体の静養である。そして湯治場に売りに来る地場の野菜などを仕入れて自慢の調理をつくり始めたり、持参した料理を持ち寄り、毎年同じみの顔があつまり宴会となる。最近の話、近所の話、ときには旦那や息子の自慢や陰口など様々であろう。話に飽きたら、また温泉。そしてあとは寝て暮らす。そんな自分流の気ままな毎日を少なくとも2週間は続けるという。
 この話を聞いたとき私は、これこそ立派なリゾートライフであり保養地の姿だと思った。色鮮やかな紅葉と白く濁った温泉は、欧米には少ない。我が国のリゾートライフは、欧米よりもはるかに充実した暮らし方をしてきた。それも農家のオバハン達によってである。だから温泉には、3,000円程度のリーズナブルな料金で長期滞在できる普段着使いの湯治場と優れた温泉が必須なのである。
 それを思うと最近の都会暮らしの人達の余暇の過ごし方には、首をかしげる部分がある。沖縄などの高価なリゾートホテルに2泊ぐらいしても、風景を楽しむぐらいで、建築の人間から見ればマンションと大して変わらない仕様のホテルでは、金ばかりがやたらとかかり、後は退屈なことは目に見えている。高い宿代では当然長期滞在は無理だろう。それにリゾート地に行くとコミュニケーションがとても下手な都会人であれば、顔馴染みをつくるのもかなわない。それではリゾートライフとは呼べない。現代の保養地開発事業は、実に馬鹿馬鹿しい仕組みを構築している。
 リゾートライフの魅力の鍵は、まさにコミュニケーションにある。顔なじみができれば、毎年同じところに人はやってくるのである。リゾートとは、「Re=繰り返し、sort=人がそこにいる或いは訪れたくなる」という魅力ある非日常的環境なのである。だから日常とは違う顔なじみがいたりできたり。そうしたコミュニケーションを基本に考えれば、欧米よりもはるかに魅力的な我が国の保養地・湯治場の将来像が描けるのである。

青森市,酸ヶ湯温泉,撮影日2006年3月3日
EOS Kiss Digital ,SIGMA18-125mm/f3.5-5.6.
シャッター:1/400,絞りf10,焦点距離109mm,ISO400.

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京都暮らし258. 冬の小さな旅30.

2010年03月16日 | Aomori city

 松山市で桜が開花したというニュースもあり、この冬の小さな旅という看板を外す時期になってきた。そうはいっても雪への未練が大いに残る今年の暖冬である。過去の画像から、青森市の酸ヶ湯温泉をとりあげよう。
 プロデュース企業に勤めていた頃青森市には、プロジェクトで何度も足を運んだ。そして地元人が奨める酸ヶ湯温泉は期待を裏切らない。今でも大変素晴らしい国民保養温泉地第1号である。青森県特産の檜葉づくりの千人風呂と呼ばれている大浴場は、温泉の成分がしみ込み、大変風情がある上に、当然混浴である。実際は、湯気で回りはあまりよく見えないといったほうがよい。
 それでも私が訪れたときは、混浴はやだという女性のためにバスロープを貸し出して入浴できるようになっている。私から言わせれば、あれは卑怯だ!。自分だけ都合良くかくしておいて、男をジロジロと観察するのかい!?。あまりジロジロと見るなと看板がでているではないか。良い趣味とは言えませんな。
 私は若いときからクロッキーや人体デッサンを勉強してきたから、女性の裸は見慣れているし、それも描くわけだから、フツーの人以上に子細に観察してきた経験がある。さらに言えば、衣服を着ていても、その下の体型がわかるぐらいに訓練されたから、街を歩いていても大体の女性の裸の体型は、普通にわかってしまうのですね。普通にわからなければ、美術系の大学や学部にはいれない。
 そう思いながら酸ヶ湯温泉でバスローブを着けた女性が私の視界に入ってくると、直感的に体型がわかる。例えば足は細いの腿には脂肪が付いているな、あれでは切れ上がった大股にはならないよねぇー、といった具合にである。だから、そんな小細工してもわかる人にはバッチリわかちゃうし(笑)。

青森市,酸ヶ湯温泉,撮影日2006年3月3日
EOS Kiss Digital ,EF16-35mm/f2.8
シャッター:1/800,絞りf16,焦点距離18mm,ISO400.

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京都暮らし257. 冬の小さな旅29.

2010年03月15日 | field work
 時々1日パソコンを触らないととても健康的な気分がする。もちろんディスプレイを見ないから眼にはよいし、世間の情報を忘れるというのも現代人には大切なリラックスの時間だと思われる。
 そんなことを考えていたら、乳頭温泉というのがあった。いささかプロモーション臭いがランプの宿があるぐらいだから、情報社会から離れるのには大変良い機会だろう。そして混浴の大きな白濁した露天風呂は、なかなか魅力的な風景だ。雪のあるときに、早割の格安航空券を使って訪れたい。温泉地に今でも雪はあるが、格安航空券がない。まあ来年の冬の旅だな。
 昭和29年から国は、国民温泉保養地の指定を始めており、温泉利用施設の整備及び環境の改善に必要な地域を「国民保養温泉地」として指定している。最初に指定されたのは、青森市「酸ヶ湯温泉」である。現在では全国で89箇所ある。実は、これに指定された温泉地は、泉質や環境を含め俗化されておらず、料金もリーズナブルなところが多く、本来の温泉保養という目的に沿って運営されており、私的基準からいうとなかなかグレードが高いのである。是非出かてみたいところが多い。
 逆にこれに指定されていない俗化された温泉地を上げれば、熱海(静岡)、長島(愛知)といった著名で通俗的な温泉地を思い出せば良いだろう。温泉地というよりはレジャーランドであり、私的にみても宿の料金は高く泉質は暖かいだけでさしたる効能もなく、要はつまらんところが多い。
 だから温泉巡りをするときは、この89箇所がお奨めなのである。乳頭温泉は、当然この制度に指定されている国民保養温泉地である。

福井県,三国町,撮影日2010年2月13日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/250,絞りf8,焦点距離24mm,ISO160.
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 京都暮らし256. 冬の小さな旅28.

2010年03月14日 | field work
 この画像にある三国町に出かけたのが2月13日であるから、もう一月ほど出歩いていないことになる。この時期は撮影していても一番面白くない季節であり、京都も相変わらず観光客はいるが、風景としてはバッチリ地方都市の顔であると私は感じている。
 この時期の行事はあるが、一番のお奨めはは奈良二月堂のお水取りだろう。今日が最終日だから、大松明が並ぶ姿が見られるなと思いながら、人混みも多いから、パスしようという気分である。この行事が終われば、春である。
 何故か今年は、もう少し雪の風景が見たかったと思いながら、次第に街は春の暖かさに近づいてきている。冬の寒さへの未練が大いに残る位に、今年は変化の乏しい冬であった。それだけ、春が来てもあまり嬉しくないのである。そんな冬を体験しそびれた気分を、暖冬憂鬱症とでも呼んでおこうか。
 振り返ってみると、底冷えする京都を体感したのは、お正月の頃と、節分あけの頃位だった。その頃は、大いに寒いとはしゃいでいたのだが、長続きはしなかった。寒いけど中途半端な暖冬だったから、どこか気分もしまらない。
 その頃に実は北海道の小樽へ行こうと企てていた。舞鶴からフェリーで20時間、最も安い席が9,000円、冬の日本海を体寒しながら雪に埋もれた小樽は、面白いだろうと考えていた。だが、小樽は通俗的すぎるし、それに仕事が断続的に入ってきたので結局まとまった時間が取れずに行きそびれた。これも暖冬憂鬱症の一因かも知れない(笑)。
 やはりこれだけ京都の街も暖冬が続くと、本来の底冷えがする冬の時間が貴重になってくる。このブログでも、2008年1月28日に壬生寺の節分祭で行われる狂言をアップさせていた。屋根や観客の頭が白くなっているのは、三脚を立てて撮影していたときに雪が舞っていたのである。もの凄く寒く、そして雪の中での狂言というのは、なかなか思い出深かった。今では雪も降らないし、撮影もできない。風情がなくなるとともに、次第につまらない時代になってきた。
 我々は、風情がないつまらない時代をつくるために、頑張って仕事をしてきたのだろうかと、つくづく疑問に思う。だからこそ私は、観光地でもなく、また観光ガイドに載らないほどに多くの人に注目されない、マイナーな面白い古い街を捜しているわけだ。
 そして付け加えれば、そうした古いマイナーな街は、雪が降る酷寒のときが大変美しいのであるということを、フォクグラファー瀬尾明男氏の作品が教えてくれたのである。

福井県,三国町,撮影日2010年2月13日
FUJI S5pro,AF-S Nikkor16-85mm/F3.5-5.6ED,VR
シャッター:1/9,絞りf5.3,焦点距離62mm,ISO1600.
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