Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

京都暮らし113. 運をつかむ人、逃がす人

2009年09月30日 | Kyoto city
 大学は新学期が始まり、始動期の慌ただしさもくぐり抜け、なんとかやり過ごした。
 学部生を指導していて思うのだが、運命を掴む学生、或いは自分が意図した進路に進める学生には、共通した特徴がある。それは、私のところに頻繁に相談、或いは遊びにくるという元気なキャラクターの持ち主である。
 例えば、私のゼミの卒業生で、今オーストラリアの大学院に進学し、ネイチャー&リゾートを勉強していた彼女の場合は、もう私のゼミにいるときから、毎週研究室へ実習課題をもって遊びに来た。遊びがてら、いろんな質問をしてくれたのを覚えている。そんな熱心さでいろんな情報を集め、大学を出てからもよく私の所に相談にきていた。そんな相談をしながら、大学院のいくつかの候補をしぼりだしたのを覚えている。郡上八幡の徹夜の踊りに誘ってくれたのも彼女である。解らなければ聞いてみようという素直さと行動力がある。それが彼女の運命を切り開いたようだ。
 逆の例もあった。先日大学院の受験で、通例ならみんな行っている事前の私との相談もなく、私の研究室を志願した本学の男子学生がいた。残念ながら学科の点数が基準の最低点に僅かに達していなかったので、試験にはおちた。事前に私と相談さえしていいれば、受験問題の選び方は指導できたし、それによって十分合格ラインに達することができたのである。彼の場合は進学組だから、大学院の試験に落ちたら行くところがないだろうと思うが、私の指導学生ではないので記憶から薄れつつある。予め私とコミュニケーションしていれば容易につかめるはずの運を、それがないばかりに、つかみ損ねたのである。彼の人生にとっては出戻り時間ができるだろう。
 こうした違いが、昨今の男子・女子の性別の違いに起因するかもしれないが、そればかりではないだろう。要は事前に教員とコミュニケーションしておくことで、様々な情報も集まるし、判断もつきやすいし、それに無駄な出戻り時間をつくらなくてすむ。
 そういえば2年生の時から私のゼミに入り込み、就職プレゼンテーションで二人で智恵を絞ったあげく、めでたくソニーに入社し、その後海外の大学院に進学したO君を思い出した。
 つまりわからなければ頻繁に相談に来る素直さと、即行動にうつせる積極性があるからだろう。その二つがある学生は、着実に自分の人生を切り開いてゆく。それが無い学生は、それなりでしかない。教員という傍観者的立場からは、経験上そうした学生達のその先が見えることがある。

京都・清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/10,絞りf4.8,焦点距離45mm,ISO1600,F2モード
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京都暮らし112. 気力がねぇー!

2009年09月27日 | Kyoto city
 それぞれなりの夏休みが終わり、 明日から大学は後期の授業が始まる。毎週いつものローテーションで授業、ゼミ、会議などがダラダラと続いてゆく。このブログも、 夏休みと言うこともあり、 私にしては珍しく8月28日から毎日連載していた。
 夜になると習慣的にプログを書くということも、2年以上つづけると思考も生活もマンネリ化してくる。古いブログを読み返すと、少しは筆慣れしてくるが、私自身にとって新鮮な刺激がない。だから 私にとって理想的なことは、 PCとデジカメをさわらない日を設けたいといつも思う。
 そう思っていると、世の中には、随分手間暇かけたブログがあることを思い出した。そこまで編集するかというような本格的な編集デザインが施され、プロ技だねと思う。手間暇かけて月一掲載というのもある。私も編集に手間暇をかけることもできるが、それ以前に、それだけの気力がない。
 そんなスグレブログを横目にして、ここではマイペースで日記風に行く他ないでしょう。今日はなんの話だったか、話題のつながらない日記です。

京都・清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
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京都暮らし111. 環境色の機材談義(笑)

2009年09月26日 | Kyoto city
 デジタルカメラの色の話を続けよう。デジタルの色は、プログラムで再現しているので、当然プロダクト制作者の考え方が反映されてくる。色標を基本に現実に忠実な色をと考えるのは、まっとうな考え方だが、実は現実というのは極めて大きな変数だと私は考えている。
 この襖絵に描かれた図版のデザインは、現代作家(注)の手によるが、制作から4年程の時間が経過している。そんな時間のなかで色は退色し、今後も色あせてゆくのである。そう考えれば、現実というのは、変化し続ける、ある時間における一つの状況にすぎない。従ってそんなあやうい存在の今の姿を、忠実に再現されても、私にはあまり意味がない。
 むしろ、現実に残されている色を手がかりに、退色する前はもう少し色が際だっていたという解釈を、私は支持する。このカットの襖絵も、私が見た実際の色よりも、少し派手気味に再現されている。
 広く私達の空間に眼をひろげれば、屋外の風景には、空の青空が反射されており、夕方になれば建物の色は夕焼け空の色に染まる。そうした環境の影響をうけながら、私達は色をみているのである。つまりそこには環境色という概念がある。このような理解は、実は絵を描く場合の認識方法でもあるのだ。
 そんなことを考えてゆくと、デジタル機材、特に撮影素子とブログラムも、ボディメーカー製よりは、これまでフイルムの化学変化による色のあり方を追求してきたフィルムメーカー製の方に一日の長があると私は考えている。 私は、色標に忠実というのではなく、これまで多くの人に使われているベルビアというフイルムのように、相互に影響し合う環境色とい捉え方を、支持しますね。
 だから最近、色標測定器みたいな抜けの悪い撮影機材のC社とかN社には全く興味が無く、むしろ環境色という捉え方に近いコンセプトがあるフジの機材を、個人的に評価しているのですね。さらに言えば、現実色よりさらに良い色で表現してもらいたいと (笑)。

注:木村英輝
京都・青蓮院門跡
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/57,絞りf4.5,焦点距離35mm,ISO1600,F2モード
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京都暮らし110. 個人的想像

2009年09月25日 | Kyoto city
 昨日は、日帰りで名古屋を往復した。単調な風景が続く名古屋環状2号線沿いの、暑い日差しで焼かれたアスファルトの上を歩いていると、まだ立派に夏だと思った。仕事が終わり京都に戻ってくると、やはりここはホームグラウンドだ。
 私は、時々乗り物に乗ると窓に陣取り退屈な時間を、コーヒーを飲みながら外の風景を撮影して過ごしている。そんな撮影スタイルを「車窓」(くるまど)と読んでおこう。
 今日も車窓をしていた。そういうときいつもリュックの資料の隙間に入るのは、標準レンズをつけたEOSなので、やむなく使用している。車窓だからという割り切りである。
 それにしてもキャノンの自然色、つまり低彩度の色の悪さはなんだろうかと思う。カラー設定を風景に合わせ、つまり彩度をあげて、露出を絞り込んでも、木々や民家の発色がすこぶる悪い。キャノンは、もともと彩度の高い人工色は大変良いのに、私のような民家志向撮影には残念だが使えない。
 先日ヨドバシカメラで手にしたパナソニックGF1が、軽く小さく、持ったときの感覚が、すこぶる良いことを思い出した。EVFというデジタルファィダーも心憎い。それに世の叔父さん達がしているように、私の手元にあるライカレンズがつけられると思うと、また怪しい魔力にひかれるようだ。だからパナソニックの色は、どうなんだろうと少し気になってしまった。また怪しいド壺にはまりそうなので、グッとこらえた。
 ライカMシリーズの古いレンズを、GF1につけるとどのように映るかを、私のフィルム時の使用経験から想像した。レンズ性能からして当然シャープだが色が良いとはかぎらない。
 例えば、ズミクロン35mm/F2(8枚玉やエリマリート28mm/F2.8は、古さ故黄色くかぶったように写るだろう。テレエルマリート90mm/F2.8はシャープさで、少しは使えるかも知れない。
 こうしたレンズをつけるとGF1のピントはマニュアルだし、絞りを開放にし、所定のボタンで拡大表示し、ピントを合わせてから、また絞り込むといった手順が必要であり、撮影の手間がかかりすぎる。 ライカとはいえ所詮昔のレンズだと割り切って使うべきだ。 それに私はそんなにたくさん撮影するわけではないから、機材が増えて邪魔だ。
 という結論になり、FUJIの新しいボディの登場を待つことにした。新しいFUJIのボディは、ホントにでてくるんだろうか。私の個人的な想像ですけどね。

京都・青蓮院門跡
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/18,絞りf4.8,焦点距離24mm,ISO1600,F2モード
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京都暮らし109. 建築都市デザインの生き残り

2009年09月24日 | Kyoto city
 先に、我が国の人口減少に伴う建築衰退論、ひいては産業衰退論を述べた。そんな中で生き残り策はあるのだろうかというのが、今日のテーマ。
 忘れてはならない視点として、社会基盤が衰退していると同時に、今後も私達の生活の質は向上してゆくことが大きなニーズとして存在している。建築需要は減っても、今以上に優れたデザイン(エコという概念も含めて)の建築提案は、社会で必要なのである。そうした新しいタイプの建築提案を、社会システムとしてどのように構築するかという大きな課題がある。
 そんな課題を踏まえながら考えると、小さな単体建築スケールでみれば、最初に再生という方向がある。すべての建築が新築とは限らず、従来の住宅やビルを再生させながら生活の質の向上に合わせて実現してゆく、方向性は今後も十分あるだろう。よく考えるとヨーロッパやニューヨークの都市の建築をみていると、みんな再生デザインではないか。
 もう一つの方向は、複数の建築を扱うアーバンデザイン的な方法だろう。再開発や地区計画などある程度まとまったエリアの環境水準をあげてゆくために、建築群を計画的に再配置してゆく方法だろう。今後文化財としてまとまったエリアを再整備する等の新しい需要も出現するだろう。世界遺産等の指定を目指すならば、相当に緻密で高度なデザインが求められるだろう。
 さらにアーバンスケールを拡大すれば、海外、特に鳩山政権がマニュフェストにかかげている東南アジアとの連携はあるだろう。そんな候補を探ると、中国がある。中国は、既に多くの世界企業そして建築家が進出しているが、それもまだ都市部に限られており、中国奥地は未開発に近い。またベトナムをはじめとする東南アジアや、インド及び隣国のバングラディッシュなども、開発援助を必要としている。アフリカに至ってはまだ未整備も甚だしい。
 このような地域からは、日本のJICAに数多くの仕事の依頼がきている。その多くは、都市計画であり都市開発である。こうした地域の仕事は、自国民の居住環境水準を向上できる、居住施設群や都市そのものをつくってゆくことが、求められている。これらは、我が国の場合1兆円規模の円借款による対外援助で資金調達されている。立派な日本の国際貢献である。
 今日、ドムーロン、コールハース、ノーマンフォスターといった建築家の仕事をみれば、世界規模でデザインするということが当たり前になってきている。
 本大学も、名古屋発想を振りかざしていては、出遅れるばかりである。大いに海外に出て行って、世界感覚で仕事をすべき時代なのである。そうでなければ建築都市デザインは、生き残れない。

清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/142,絞りf6.7,焦点距離85mm,ISO100,F2モード
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京都暮らし108. 法律などについて

2009年09月23日 | Kyoto city
 人間を撮影すると必ず伴うのが肖像権である。 京都でいえば舞妓さんであれ催事の主人公であり、或いは特定できる個人であれ出版物などの商用目的に撮影したカットを使用すると、肖像権があるので無許可では掲載できない。だから私は、舞妓さん姿を正面から撮影することはない。
 その他にも古建築などの文化財の図面資料を商用目的で掲載するときには、掲載許可が必要である。大学で公開している紀要は国際図書記号が付してあるので、私が書いた原稿をこれに掲載するときには、使用したすべての資料について保有者の許可をとっている。また京都府資料センターなどは納本も要求されるので、それに従っている。もちろん注などの編集フォームに従い、資料所有者の掲載許可済の旨を記載しなければならない。
 商用目的において、法律を拡大解釈すれば、撮影という行為自体がなくなってしまう場合もあるかもしれない。それでは、表現の自由はどうなるんだいという別の問題も発生するだろう。そういうときは、大学の弁護士と相談するほかないだろう。
 このブログでは商用目的ではない上に、私的メモを掲載しているというコンセプトがあるので、こうした法律は適用除外と判断。今日のカットの場合は、特定の人物がデーマではなく、また顔が誰だかは判別できないので街の風景とみなさる上に、商用目的ではないので法律の対象外と判断。もちろん特定の個人が一人だけ撮影されたカットがあり、当人から請求があれば、当該カットの贈呈ぐらいはするだろう。ただし大学は貧乏だから、金銭で支払うことは皆無であり、商用目的でなければ無視してもよい。
 撮影されたカットに複数の人間が撮されていれば、それは群衆とみなされるので、これも法律の対象外。公道に面した店舗も、公道から撮影している限りでは、街の風景なのだからこれも適用外。
 ただしこのブログをまとめて出版物にすると商用目的が新たに発生するので、掲載許可が必要になるカットもでてこよう。商用目的で、図版や作家などの文章の一部を掲載しても、問われない例外ケースがある。それは大学の入試問題。
 このような法律判断を、AFやAEのように撮影機材側で自動判別してくれないかなと思うが、それは無理な相談だろう(笑)。

八坂界隈、7月7日
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/50,絞りf5.6,焦点距離72mm,ISO125,F2モード
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京都暮らし107. 和の装い

2009年09月22日 | Kyoto city
 春の桜の頃に撮影したカットを掲載した。私が、秋が嫌いだからといってそこまですることはないだろうと、言われそうだ。ブログも人間が登場したカットを続けたので、その続きである。
 京都では、もう何年も前からコスプレというのが流行っており、当初は舞妓さんの格好で街を散策したわけだ。その格好で人力車に乗るというサプライズもある。本物の舞妓さんと比較すれば、着物の着こなしやデザインで、あっ一寸違うなという感じもし、それに顔つきも違うのでなんとかだが、わかるように思われる。それにデジカメをもっている舞妓さんなんかいないでしょう。
 最近のビジターの装いでは、しごく普通の和服のレンタルというスタイルが圧倒的に多くなった。各人が季節に応じて、思い思いの和の色の組み合わせを楽しんでいるようであり、またこれがなかなか街に良く似合うのである。和服だと、お茶や拝観料が割り引かれる特典もついているようだ。外国人も和服で徘徊している風景を、しばしば眼にする。
 食・衣・住という順に京都人の価値観があるのだが、ビジターはこの価値観の順に京都を楽しんでゆく。 住は土地の狭いところだから後回しにして、という具合にもっとも素直な楽しみ方である。
 私等は順位の下の方から撮影しているので、中々食の写真がないのだが、この辺りの写真は、巷の数多くのブログに掲載されているので、私が扱うこともないだろう。
 それにしても、秋に春のカットは、少し変か!?
 
石塀小路
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/100,絞りf8,焦点距離78mm,ISO800,F2モード
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 京都暮らし106. 連休考

2009年09月21日 | Kyoto city
 今年は、土曜日をいれれば6連休なので、少し気分も拍子抜けしている。そんなに連休を連続して設け、人々の行動を一斉に行えば、キャパシティを超えた鉄道や高速道路や多くの施設は、突然のラッシュとなり、当然サービスは低下し、所要時間はかかり、そして出かけたくても出かけられなかったという、マーケティング上のロスを数多く発生させてしまう。
 マーケットという視点では、交通や施設のキャパに応じて人々の行動を分散させるというのが原則である。それに、そんなに休みを多くすると、派遣労働者は収入の大幅な低減につながる。働き方も多様化しているのであるから、全国一律に連休を多くとるのではなく、むしろ休日を減らし、有給休暇の完全消化に勤める方が、私は最適だと思う。
 季節的に見れば、この時期の気候は、高原並みの気温なのだからしのぎやすい。だが、なにしろ秋嫌いの私からすると、今一つ期待感のもてない時間が過ぎてゆくようで、体もだるく頭痛がするさえない日々なのだが、どういうわけか今日は胃も痛くなってきた。こんな不健康なブログを書いていると、自然と胃痛もおきるんだろうなと勝手に思われる。次の10月の連休には、山!!!、山行こう!!!!!!!!!!!。

清水寺・青龍会
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/200,絞りf8,焦点距離85mm,ISO100,F2モード

2009年9月21日月曜日


 

 
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京都暮らし105. デジタルな色

2009年09月20日 | Shonan coast
 先日、所用が終わり、さて台風が接近しているので、その余波で良い波が来そうな湘南海岸に行こうしたときには、もう夕方に近かった。それでも少し海を見たいと思ったのは、京都の街には海がないためだろう。もとより近畿地方自体が外洋と接するのは、紀伊半島東側位なので、外洋が手近にあるという感覚ではない。
 湘南海岸に到着したら、光が少なくさすがに暗かった。波も肩ぐらいであったので、もう少し高さが欲しいなと思った。撮影機材は、EOSに400mmのレンズをつけたが、動く被写体をシャッター速度1/30では、撮れないよねとおもいながら、久しぶりの海岸の空気を吸っていた。それはそれで大変気持ちがよい時間であった。
 撮影したカットをみていると、やはりキャノンは、自然界の色が悪いなぁーと、なげかざるを得なかった。本来ならばFUJIのボディに、ニッコール80-400mmをつけたいのだが、このレンズがなかなか新タイプにモデルチェンジをしないので、やむなくキャノンのレンズを使用していた。
 ただ弁護的発言をすれば、メーカー毎の色特性に人間の眼が慣れてしまうことがあるかも知れない。撮影の道具としては、あまり大切に扱おうという意欲が起きない道具キャノンである点は良いのだが、日頃FUJIの色に慣れていると、どうしてもキャノンの自然界の色再現の悪さに、眼がゆくのであろう。
 話題を変えて、今日の京都は、雲一つ無い夏を思わせる晴天だった。夏の最後の風景だと思うが、風は冷たく、次第に寂しい秋になってくるのがわかるような1日だった。

神奈川県・鎌倉高校前
Canon EOS 40D,EF100-400mm/f3.5-5.6
シャッター1/30,絞りf5.6,焦点距離400mm,ISO800
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京都暮らし104. 杞憂で終わればいいのだが!

2009年09月19日 | Kyoto city
 二日ほど所用で東京に出かけていた。そんな中でプロジェクトディレクターと、ささやかな酒宴をしていた。話題はリーマンショック以後の我が国のあり方とでもいっておこうか。
 実は2004年頃から日本の総人口が継続的に減少している。日本の歴史の中で、このような変動は、これまでにない経験である。従って人口や需要の増加を前提とするマーケティング理論をはじめとする多くの諸理論は、今後は使えないという大問題が発生してくる。
 我々は数年前から、そうした事態を予測していたので、特にこの時期になって慌てるような話ではない。ついに、くるものがきたかというスタンスである。
 リーマンショックというのは、単なる不景気ではなく、こうした我が国の構造的な問題を顕在化させたと考えている。重要な事は、もう景気の良い時代は、我が国には二度とこないだろうという予測だけである。いづれ中国経済が、我が国を追い越してゆくであろうし、例えば米国のシンボルであったIBMのように、中国企業に買収される我が国の企業も出てこよう。つまり日本の国力は、現状では衰退する方向にしかないということである。それも人口減少に伴う需要減という構造的な課題があるので、容易に解決は出来ない。
 だから東京の建築設計事務所は、どこでも所員をリストラし、相当の減量経営に勤めている。一昨年私のゼミから院生を、私が知っている設計事務所に入れ込んだ経緯もあり、その後どうしたかと案じていたが、彼女は減量した設計事務所で仕事をしていたようである。おそらく私のゼミ生を設計事務所におくるのも彼女が最後であろう。
 すでに建築の仕事の中心は、中国をはじめとする東南アジアに移行しており、我が国の仕事は、個人住宅を細々と行う程度の需要しかない。
 にもかかわらず、我が大学では建築設計系のゼミに人気があり、学生達が集まるのであるが、これから設計という仕事のない時代に、そんなに人を集めて大丈夫なのだろうかと懸念する。海外の仕事をしていれば少し生き残れるが、国内ではもう設計が発生するような仕事は構造としてはない。こんなとき20世紀であれば、私の懸念が杞憂に終わればと書くところだが、今はもうそんな悠長な時代ではなくなっている。

清水寺・青龍会
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/90,絞りf8,焦点距離85mm,ISO100,F2モード
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京都暮らし103. 青龍会

2009年09月18日 | Kyoto city
 清水寺の青龍会にでかけた。青龍とは、風水の四神相応の考え方に由来し、都の四方を守る神獣の一つで東を守っている。支配色が決まっており、青龍は青つまり緑と定まっている。ちなみに北は玄武で黒、南は朱雀で赤、西は白虎で白である。
 四神相応は、古来からのの都市をデザインする際の考え方であり、京都の街もこれに従ってつくられ、シンボルカラーが定められるなど、いかにもデザイン的関心を思い起こす催事である。
 この 十六善神を従えた行道は、お経を唱えながら、観音加持の「八功徳水」(はちくどくすい)の法水を振りまき、 境内や門前町を練り歩く。
 どうも私の眼の錯覚だと思うが、仮面をかぶった若い巫女の髪が茶髪にみえてしまって。そうなると、なんだ普通の平民・ギャルのアルバイトかいな、と思ってしまうのだ。前夜は彼氏と千々に乱れて遊んでおいて、今日はアルバイト巫女で楚々として法水をまくですかぁー、と仮面をかぶっているために余計な詮索をしてしまうのも面白い。それに巫女さんは神社にはいるが、お寺では余り聞かないというのもそう思う理由だ。清水寺の中に縁結びの地主神社があるから、そこの巫女さんかと想像する。それにしても彼女達から法水を授けてもらっても、ありがたみは薄いと思ったりして・・・。
 衣装デザインは京都府出身のワダエミである。従って、この行道の衣装をみていると、いやでも黒澤明の映画「乱」を思い出す。どうしてここに仮面をかぶった巫女や武者姿があるのかわからないが、着物のアップリケを除けば、それは正しく黒沢映画の世界である。デザイナーが同一人物というのは、どうしてもそんな連想が働いてしまう。
 催事の縁起が風水という都市デザイン、シンボルカラーが定まり、ワダエミの個性漂う衣装といった具合に、いかにもデザインを意識させてくれる催事であり、お寺さんの行事としては大変ユニークだ。従って、あまり宗教臭さが少ないのだが、古くからの伝統行事とくらべると、どこか軽い空気が流れていることを感じていた。そんな軽さが現代の空気なのだろう。

清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/80,絞りf8,焦点距離16mm,ISO100,F2モード
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京都暮らし102. 酒宴の効

2009年09月17日 | Kyoto city
 先日の日経新聞、国際海洋裁判所判事の柳井俊二さんの記事に以下の一文があった。
 「酒と食事は相互理解を深め友情を結ぶ。」
 要約すれば酒と食事が、人々の間にある垣根や、つまらないメンツを取り払い、本音で話し合い、信頼関係をつくるということだ。
 私が思うに、外交において酒宴を設けるのは、相手も人間であり、胸襟を開いてこそ信頼関係も高まり外交も進展するのであろう。他方酒宴を持たない国家同士というのは、戦争状態なのである。例えばブッシュ時代のアメリカと北朝鮮のように。
 以前、酔っぱらって記者会見に臨み、首にされた我が国の大臣がいたが、このような光景をみると、ああなんと我が国は島国根性なのかと思った。大臣が酔っぱていたら、翌日の会議はすべてキャンセルして、翌々日から行えばよい。全く我が国の酒を飲まなくなった小市民的官僚と、メディアの頭の堅さには、あきれるばかりである。
 酒宴をもうけ信頼関係をつくり、人脈をひろげてゆくことは、国の外交であれ、我々の仕事であれ同じであろう。
 私もかつて中国人と一緒に仕事をしていたときは、会議中に、もうこいつらは馬鹿かといわんばかりの剣幕で応酬する時もあった。その後で、食事・酒宴になると、この中国人達と大いに食べ、大いに飲み、大いに語らい、そしてあしたもよろしくといって握手して1日が終わるのである。それが中国流なのである。海外そして国内の仕事において、こうした酒宴がつとまらないと、仕事でけんか別れしたままとなり、その後の信頼関係は築けない。
 そうしたことに思いをめぐらせていると、最近我が大学では、戦争状態を好む学生達が増えてきた。つまり酒や食事に誘っても、応じない輩がいるのだ。ほなら、私も教育上必要なことだけ述べて、あとはほかしておこうか。それは、アメリカと北朝鮮のような敵対関係をお望みなのだから(笑)。

高山市・酒造元
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/60,絞りf3.5,焦点距離16mm,ISO800,F2モード
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京都暮らし101. 顔の見えない世界

2009年09月16日 | Kyoto city
 時折鉄チャンが撮影した古い写真が掲載されているブログ(注)を見ている。地方の大変ローカルな駅の写真では、人間や民家や鉄道のスケールに違和感が無く、敷地もスペースがあり、そして背後の山々が堂々と大きく見えるのである。多分大きな建物などがなかった時代であり、大変のどかな情景とともに、ランドスケープの大きさが感じられた時代だ。そんな写真を見ていると、構造物は木造2階建て位が日本の風土的スケールだと思われる。
 というのも、先日出かけた信州上田を思い出していたからだ。そこではマンションが建ち、鉄道は田畑の中の高架という大がかりな土木構造となって新幹線が走り、鉄塔が林立するといった具合であり、山などが堂々と大きく見えることはなかった。
 人間の感覚は何かと比較してのことだから、それが風土的スケールから高層マンションや高架や鉄塔といった大規模スケールに変われば、グランドレベルからのビスタは悪くなり、山々はそれなりの規模でしかみえない。つまりランドスケープも小さく見えるようになったといえよう。
 上田から別所温泉に行くローカル鉄道も、ターミナル駅は高架となり、都心を走っていたステンレスボディの車両があてがわれ、少しは温泉地までの所要時間も短縮されたのだろうけど、別に新しい車両にする必要もなく、また時間を短縮しなくても良いのにと思った。時間がかかる分、見知らぬ人達と車内で顔の見えるコミュニケーションしていれば、それはそれで楽しいすごし方であったと思う。
 そうしたコミュニケーションが、現在ではインターネットに変わったのだが、 お互い無責任に好き放題にバンドルネームという匿名で顔が見えない者同士のコミュニケーションとなってしまった。
 まとめていえば、グランドレベルからの視界は悪くなり、人々の顔が見えないコミュニケーションが、現代社会の悪しき特徴になった。

注:http://6.fan-site.net/~haasan55/
大谷祖廟界隈
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/160,絞りf6.7,焦点距離85mm,ISO100,F2モード
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京都暮らし100. 多義的な大学

2009年09月15日 | Kyoto city
京都暮らしのシリーズも100回となってしまった。これまで書いてきた2年間のブログのシリーズを振り返ると、セカンドライフ、Village Design、Landscape、番外編、横濱、京都に棲む、ヴァーチャルアイランドであった。今回のシリーズは、それらの中で最長の回数となってしまった。といって特にそれに意味があるわけではない。
 このブログも全くPRをしていないために、ビジターも少なく、私は静かに執筆できる。時折大学の裏話なども書いているので、今の世知辛い社会を思えば、あまり広く読まれない方が無難だと思っている。
 大学の先生は、何のためにいるか?。そういう質問をされれば、学生に物事を教授するためという答えが一般的だろうし、それも先生の存在理由の一つかも知れない。
 だが、実は!!、なのである。一週間の大学の先生の時間配分を試算すると、先ず本や論文を書くために研究したり執筆したり、研究者とシンポジウムをしたりといった研究活動が5割、大学の運営に関する仕事、特に学部生は、毎日何かしら珍奇な出来事を起こしてくれるので議題は減らないが、そういう運営に関する会議や打合せで3割、残りの1割が講義についやされ、その他1割が雑用となる。だから、学部生の講義に費やされる教授の時間は1割程度にすぎず、一般的な認識や期待とは大いに異なっているのが現実だ。従って大学の先生は、学生のためと言うよりは、研究のために存在しているといった方が正確なのである。
 このようなワークスタイルをしていると、「研究ばかりしていないで、学生達にもっと接しなさい」、という上からのお声がかかってくる。
 ホナ!というわけで、学部生達に近づいてゆこうとすると、彼らからうっとうしい先生だなと言われるのが通例である。彼らの気分としては、「ほっといてよ!、バイトがあるのになんでゼミなんかすんだよ!」、「えっ、ゼミの懇親会!、金かかるからやめといて欲しいな!欠席です!!」、挙げ句の果てに「今日は着物の着付け教室があるのでゼミはお休みします」、といった具合なのである。こうして疎遠志向の関係性が、なんとはなしに成立しているのが、今の日本の大学実態であろう。
 実際多くの教員は、毎週学生達に接するfree時間を設けているが、私の経験でも、これまでにこの時間帯にやっ来たのは、博士後期課程のドクター論文を書く院生達だけである。
 つまり現代社会では、学部生にとって大学にゆく目的は、教授をうけること以外に、4年間の大学ライフを彼らなりに楽しむといったもう一つの目的が成立しているのである。大学に行く目的が多義的になっているのであろう。

清水寺
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/60,絞りf11,焦点距離16mm,ISO200,F2モード
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京都暮らし99. ラチチュード

2009年09月14日 | Kyoto city
 立て続けの夕方の風景のアップで、ちょっとあきるのだが、短時間で光が大きく変化してゆく夕方の風景は、撮影していても興味深い。それに街をあるくならば、お寺さんの拝観者が少ない夕方は境内が落ち着いている。清水寺の拝観時間は、今は午後6時半までである。
 ところでデジタルの撮影素子は、フィルムに比べるとラチチュードが低い。例えば逆光で太陽のある空と建物とを撮影しようとする場合、どちらかに露出をあわせなければならない。空に合わせれば、建物は黒くつぶれてしまう。逆に建物に合わせれば、空は白く飛んでしまうという具合だ。だから陽が沈みやがて屋外と屋内の光が同じになる薄暮という僅かな時間帯は、両方を撮影できる貴重な一時でもある。いつも薄暮の時間を目指して夕方から、散歩に出かけている。
 WEB情報によると、この素晴らしい撮影素子を搭載したFUJIのボディも生産終了だそうである。次の新機種がでるかどうかはわからないが、もう一台同じボディを購入しておくか、仮に新機種がでるのであれば、それまで待つか判断に迷うところである。
 そういうわがままなユーザー相手の商品開発なのであるから、撮影機材のプロダクトデザインは、結構難しいところがある。撮影機材に関して言うと、FUJIの一眼レフボディとニッコールズームレンズの組み合わせは、使い勝手が良く、VRの効果もある。今日は撮影データも添付しておこう。

八坂道
Fuji FinepixS5pro,AF-SNikkor16-85mm/F3.5-5.6ED
シャッター1/8,絞りf4.5,焦点距離34mm,ISO1600,F2モード
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