Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Landscape50. 名古屋市郊外

2008年03月29日 | field work
 写真は、名古屋市郊外、正確に言えば小牧市にある美術系大学のバス停である。遠近感がありながら、遠くの風景が隠れていることが、面白かったと記憶している。というのも、当時一時ではあったが、横浜美術館で行われていた写真教室に通っていた頃に、講師の金村修先生が、これって引き抜いた写真であったのだ。個人的には、フーン・・これねぇーと思っていたのであるが、写真というのは不思議で、そういわれればそんなんかなと思いながら、いつも眺めていたカットであった。
 だが、遠くが見えない、という金村先生の考え方は面白かった。彼の(私の年齢の1/2位だろう)写真作品が捉えようとしているのは、混沌としている都市そのものだったからである。彼によって街中に放置された自転車や電線が、都市の風景であることも教えられたように思われる。デザインの立場からは、当然放置自転車や架線はないほうがよいのだが、それでも出現するところが都市なのである。
 つまり整然とされた状態と混沌とした状態と、どちらをとっても都市なのである。都市とはそうした両義的或いは多義的な世界なのである。都市デザインに没頭していると、ともすればそうした混沌としている世界を忘れてしまうことがある。だから、時々この写真を見ながら、混沌とした都市の姿を思い出すのである。
 ところで、昨年の8月から書き続けてきたこのブログも、最近書き飽きた感がある。調度春休みでもあるし、少しこのブログもお休みを取りたいと思う。

撮影1997年
LEICA M4-P,ElmaritF2.8/28mm,トライX
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Landscape49. 名古屋市中村区4.

2008年03月28日 | field work
 名古屋市中村区の区境である堀川沿いを、那古野地区と呼んでいる。戦災に遭遇した名古屋にあって、堀川沿いに蔵や古い民家が建ち並び、この地区だけは少しばかり古風な風景が残されている。そうした那古野地区の古い蔵のある通りの1本西側の通りにも、古い店舗が建ち並ぶ風景があった。それが上の写真である。名古屋駅から歩いても10分程度の所である。
 私が大学で進めているデザイン実習では、毎年那古野地区を対象とする課題制作を学生達に行わせている。従ってこの地区を、毎年学生達をつれて歩き回っている。近年になって少しずつではあるが、街の風景が変化している。先ず古い建物が減り空地が増加している。おそらく住む人がいなくなったためであろうか。また良心的なのは、古い建物が、そのまま喫茶店やレストランなどに転用されている。転用といっても、本来そんなに外部の人々が来るところではなかったので、なんとか経営しているといった状態である。少しずつ人々が、こうした風景が持っている価値に気づきだしてきたことを、個人的には評価している。
 歩みは遅いが、少しずつ古い風景が残されようとしていることは喜ばしいが、他方でなくなってゆく風景もある。今後どちらの動きが主導的になるかはわからないが、近年になって、特に街が変化しつつあることは確かだろう。そうした街を改変してゆこうとする行為自体が、都市のダイナミズムの一つなのだろうと思っている。

撮影1997年
NIKON F4,NikkorF2.8/35-70mm,プラスX
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Landscape48. 名古屋市中村区3.

2008年03月27日 | field work
 名古屋の風呂に関する話題を2件写真であげた。最初の写真は、既になくなった風呂屋である。写真をよくみると「メンズバス」と書かれており、つまりソープランドだったのだろう。だかこの店を通り過ぎたときには、華やかな女性を感じさせることはなかったように思われた。文字通り「メンズバス」だったのかと想像すると、それはそれで面白い世界だと思われた。特に建築のデザインが滑稽であり、何風といいますか・・・このデザインはと思っている内に、後日建物毎なくなってしまったことを、名古屋のローカルな記事で知った。
 もう一つは下の写真であり、普通の銭湯である。だが入り口が狭く閉鎖的なデザインであり、こちらの方も本当に銭湯なのだろうかといった具合に、怪しい雰囲気が漂う。しかも上をみると建物が相当に古いことがわかる。かろうじて「金時湯」という文字だけが読めるが、私はこれで銭湯=大衆浴場だろうと判断していた。しかしやっているのだろうか?
 名古屋の夏は暑い。私もしばしば名古屋の銭湯に出向いたことがある。それは結構建物も立派であり、24時間営業している銭湯もあった。銭湯は名古屋の生活必需品であることを痛感していたのである。
 そうした現在の都合とはあまり関係なく、この地域には銭湯が多い。もちろん旧遊郭が、銭湯に衣替えしたのかもしれないが。だがそんな風景も、最近では随分なくなってしまったと予想している。変化の遅い街とはいえ10年という歳月は、やはり長いのだろう。多分ここも、今では普通の住宅街になってしまったことだろうと予想している。

撮影年1997年
LEICA M4-P,ElmaritF2.8/28mm,トライX 
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Landscape47. 名古屋市中村区2.

2008年03月26日 | field work
 名古屋市中村区には、中村遊郭があった。10年前には、その名残をみることがぎた。料亭にみられる朱塗りの壁の日本家屋、苔むした屋根をいただく小さな門などをみていると、そのように感じられた。その他にも、周囲を歩くと随所に当時の片鱗が伺えた。例えばこの写真に示した旅館の屋根に見られる文様や、街の店舗の周囲に見られる、角の丸くなった窓枠などがそうであろう。 当時は、街の姿を留める風景を探し歩いていたのだで、 遊郭街を撮ろうとしていたわけではなかったが、後で調べたら往事の姿を留めていたのに気がついた。といって、今頃撮影しても建物の機能は既に失われ、そして変化しているのであるから、古い街の写真でしかない。
 名古屋は、戦災に遭遇しているので、市内を流れる那珂川から東側の町の大半が消失した。そこには名古屋城も入っていた。名古屋城炎上時の写真が、現在復元された名古屋城内部に展示してあった。屋根瓦が焼けるときの色であろうか、青白い炎が名古屋の街の夜を染め、激しい轟音とともに崩壊してゆく様子を描いていた。当然名古屋の街も戦災によって、大半は焼かれていた。現在では、 68年経っている ので、もう戦後とはいわなくなった。昔の名古屋の街の姿を知るものは、大変少なくなってしまっただろう。
 旧中村遊郭は、私が訪れた時から10年は経ってしまった。 古い建物群が点になり、やがては消滅してゆく。様々な建物が消えていったであろうと思われる昨今である。

撮影年1997年6月
LEICA M4-P,ElmaritF2.8/28mm,トライX
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Landscape46. 名古屋市中村区1.

2008年03月25日 | field work
 調度10年前、4月を過ぎようとしていた頃だったか、赴任したばかり大学の学生達をつれて、名古屋市中村区にある旧遊郭一体を回遊した。確かマチノロジーという怪しげな看板を掲げた授業であったと思う。回遊して写真を撮り、見聞を広め、それを何かの形にしたといった授業であったと思われる。何かの形というのが、今考えても全然思い出せない。一回限りの初めての大学の実習授業だった事ぐらいしか覚えていない。
 だが学生達は元気であり、街を大いに歩き、大いに撮影し、そして「ここは遊郭だったから、昔ならば、君たち1人30万ぐらいで、売っちゃえるわけね・・・でっ、僕はすごく儲かる」、「先生、すっごくそれって安くないですかぁー」、といった具合で、そういう会話だけは覚えているのだが。
 そんな回遊授業のさなかで、撮影したのが、上の写真。
「フトンは美乃正」とか「福寿わた」といった文字が懐かしい。ここに古い車が来れば面白いだろうな、と考えていたらジープがきた。とっさに撮影したが、私が撮影したのでは、使い道がないなと思いつつ10年が経った。

撮影年1997年4月頃
MINOLTA CLE
ROKKOR F2.0/40mm
トライX
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Landscape45. 山陽路・JR高梁駅

2008年03月21日 | field work
 夕方陽も傾いてくる。古い町並みを通り抜け、JR高梁駅へ向かった。駅構内に掲示してあったのが、このポスターである。東京への誘いとは、少し笑えるが、はたしてこの街に、そんな若者達がいるのだろうか。或いは確か吉備国際大学があるので、その辺りを狙っているのだろうか。どことなくリーズナブルな装いに、苦笑い。
 私は、高梁駅から吉備線に乗り岡山を目指した。さらに岡山から新幹線で京都へ向かった。今日の宿泊先は京都である。横浜をたってから調度5日目であった。翌日は、大学研究室後輩の結婚式である。結局京都に2泊、その後卒業式があった名古屋に2泊してから横浜に戻った。結局8泊9日の旅であった。2005年の春も、すぐそこまでやってきていたのであった。
 そういえば呉から始めた山陽路のシリーズも18回を数えた。今年は2008年、そしてやはりもう春である。ひとまずこの山陽路のシリーズを終えようとおもった。

Canon EOS Kiss Didital F3.5-5.6/EF18-125mm
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Landscape44. 山陽路・高梁市内の寺院

2008年03月20日 | field work
 成羽町美術館から路線バスで高梁市内に着いた。高梁市内の寺院を紹介しよう。市内の主立った寺院は、山稜に沿って、石垣を配し、その上に立っている。こうした変化ある石垣の配置が面白い。
 写真上段の薬師院・松蓮寺は、山を背後にひかえ、墓を寺の前面に設えている。高梁市の文献によれば、当時江戸時代1国1城政策のもとで、寺という名目で築かれた要塞だったとのことである。写真中段は、備中国奉行・小堀遠州作庭による禅院式枯山水蓬莱庭園を有する頼久寺である。また写真下段左は巨福寺、写真右は寿覚院である。
 これらの寺院を見ていると、セットバックしてゆく空間の中に設えられた、石垣の設え方はユニークだ。例えば商業施設等の前面に使えそうなデザインだといえる。実際これらの寺院の一部では、映画のロケーションも行われていた。何故か心が和む風景であった。
 
Canon EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape43. 山陽路・成和町美術館

2008年03月19日 | field work
 坂本から車に乗り約30〜40分位すると、 山の中の静かな街のなかに開ける幾何学的な箱、それが成和町美術館である。ここでは成和町出身の画家、児島虎次郎の作品を展示している。 成和町美術館は、1953年に開館され、1994年には3回目のリニューアルを行っている。現在の建築デザインは安藤忠雄氏である。人工の大池を介して、小高い丘斜面には桜が咲くといわれているが、時期はまだ少し早いようだ。
 この美術館では、地域の催事も行っており、ホームページをみると地域の人々らによる美術展の開催が記されていた。 それ以上に紹介する内容はないのだが、 小さな町の比較的大きな美術館である。
 
成和町美術館
http://www.nariwa.ne.jp/museum/index.html
 
Canon EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape42. 山陽路・成和町坂本

2008年03月13日 | field work
 明けて5日目、宿泊先のラ・フォーレ吹屋から、棚田と石垣のある民家が点在する山間部の道を徒歩で下ること1時間程で、中国山地の山奥に静かにたたずんでいる西江邸が見えてくる。先に紹介した広兼邸と同様に、ローハと紅殻の生産を行ってきた豪商、西江家の邸宅である。建設は1704〜1715年頃と推定され、江戸時代の建築様式を今に伝えている。また代官御用所を兼ねていたので、裁きの場である白州も設えられている。現在国登録有形文化財であり、西江家が民家の管理を代々引き継いでいる。従って今も夫婦が住んでおり、上の写真の門脇の右側の棟が住まいになっている。これに隣接し、染め工房があり、伝統工法を用いた工芸作品を制作している。
 門をくぐると小庭園を囲むように、母屋、寺子屋、お白州の場、蔵などが巧みに配置されている。小庭園を中心とするクラスター的配置の巧みさ、各建築間に発生するスリット状の空間とこれを活かした庭園、折れ曲がる動線とアイストップや視界の変化といった具合に、建築言語が多用に見いだされるなど、変化に富んだ風景を形成している。
 このような民家と庭との巧みな関係性あるデザインを見ていると、京都大徳寺の高桐院や孤篷庵を思い出す。こうした空間の設え方の上手さは、日本人の優れた特質なのかも知れない。個人的には、西江邸のように建築の量感と隙間の量感とが巧みに組み合わさり、変化呼応するデザインが、好きである。海外建築家で例をあげれば、リチャード・マイヤーがデザインした「アセニアムホール」だろう。それは一つの建築のなかに庭園的感性を詰め込んだデザインだといえるだろう。
 
Canon EOS Kiss Didital  F3.5-5.6/EF18-55mm
Canon EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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Landscape41. 山陽路・成和町吹屋3

2008年03月12日 | field work
 現在の高梁市立吹屋小学校(明治6年開校)は、明治42年に竣工した我が国最古と称される木造2階建ての校舎である。硝子越しに校舎の内部を伺うと、今でも学校建築として丁寧に使われていることがわかる。江戸末期から明治と、銅や紅殻の産地として発展してきた吹屋の経済力が、折上式天井や規模の大きさを語り、そして100年以上持つ堅固な構造が、現在の使用を可能にしている。親子孫3代が通ったという人々もいることだろう。今尚吹屋の文化シンボルである。
 一般的に、木造校舎で学んだ経験を有する熟年世代は多い。そうした世代では、木造校舎の廊下を走り回ったり、廊下の雑巾がけさせられたことや、落書きや柱の傷を思い出すだろう。そうした思い出しとは単なる郷愁ではなく、様々な記憶が宿った意味空間の存在を示唆している。
 建築空間には、様式、機能、生活の器といった物理的存在だけではなく、その空間に関わった人々の生活経験の蓄積によって、様々に意味づけられた意味空間としての存在がある。従って古くなったから、機能的に不十分だからといった安易な理由で、容易に立て替えればよいという話ではすまない。
 我が国は、戦後復興や経済成長という名目のもとに、これまで実に多くの意味空間を取り壊してきた。それは建築だけに留まらず、町や都市の風景迄もが、意味づけられた空間を容赦なく捨てさり、現代的と称される風景に取って代わってきた。だか、潔く過去の意味ある原風景を切り捨て、その代わりになりうる期待が持てる未来風景を、私達は手にしているのだろうか。それを持ち得ないとすれば、私達は風景のない時代を歩いていることに他ならない。だから新しい風景のなかに、意味付けられた原風景を盛り込んでゆくデザインが必要なのである。
 今日1日は倉敷に始まり、吹屋泊まりである。随分動いた長い一日であった。ラ・フォーレ吹屋という比較的新しい国民宿舎に泊まる。横浜を発って名古屋、呉、倉敷と泊まり今日で4日目である。
 
Canon EOS Kiss Didital  F3.5-5.6/EF18-125mm
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Landscape41. 山陽路・成和町吹屋3

2008年03月12日 | field work
 現在の高梁市立吹屋小学校(明治6年開校)は、明治42年に竣工した我が国最古と称される木造2階建ての校舎である。硝子越しに校舎の内部を伺うと、今でも学校建築として丁寧に使われていることがわかる。江戸末期から明治と、銅や紅殻の産地として発展してきた吹屋の経済力が、折上式天井や規模の大きさを語り、そして100年以上持つ堅固な構造が、現在の使用を可能にしている。親子孫3代が通ったという人々もいることだろう。今尚吹屋の文化シンボルである。
 一般的に、木造校舎で学んだ経験を有する熟年世代は多い。そうした世代では、木造校舎の廊下を走り回ったり、廊下の雑巾がけさせられたことや、落書きや柱の傷を思い出すだろう。そうした思い出しとは単なる郷愁ではなく、様々な記憶が宿った意味空間の存在を示唆している。
 建築空間には、様式、機能、生活の器といった物理的存在だけではなく、その空間に関わった人々の生活経験の蓄積によって、様々に意味づけられた意味空間としての存在がある。従って古くなったから、機能的に不十分だからといった安易な理由で、容易に立て替えればよいという話ではすまない。
 我が国は、戦後復興や経済成長という名目のもとに、これまで実に多くの意味空間を取り壊してきた。それは建築だけに留まらず、町や都市の風景迄もが、意味づけられた空間を容赦なく捨てさり、現代的と称される風景に取って代わってきた。だか、潔く過去の意味ある原風景を切り捨て、その代わりになりうる期待が持てる未来風景を、私達は手にしているのだろうか。それを持ち得ないとすれば、私達は風景のない時代を歩いていることに他ならない。だから新しい風景のなかに、意味付けられた原風景を盛り込んでゆくデザインが必要なのである。
 今日1日は倉敷に始まり、吹屋泊まりである。随分動いた長い一日であった。ラ・フォーレ吹屋という比較的新しい国民宿舎に泊まる。横浜を発って名古屋、呉、倉敷と泊まり今日で4日目である。
 
Canon EOS Kiss Didital  F3.5-5.6/EF18-125mm
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Landscape40. 山陽路・成和町吹屋2

2008年03月11日 | field work
 吹屋の集落から急傾斜の棚田が続く山合を1時間ほど歩くと、広兼邸がある。中国地方は急傾斜地が多いため、石垣を築きその上に母屋を建てる建築様式は、この地方を歩くとよく見かける。そうした民家建築の中で、江戸末期に建てられた広兼邸は群を抜く規模を擁する。広兼家は、防腐剤である紅殻の材料であり、この地域で産出される銅からローハを製造し、大きな財をなしてきた。
 石垣沿いのアプローチと小さな桜門、左側の長屋のプロポーションは、大変美しい量感であり秀逸である。桜門をくぐると、低い土塀沿いを主動線とし、これに対し母屋、土蔵、長屋等の群建築が配置されるといった明快な空間構造を持っている。今に伝わるその姿は、我が国の民家建築でも群を抜く。
 桜門を正面に見て、左側の長屋は、使用人や家畜の空間であり、諸作業に使われていたことが伺える。 門の右側が主の空間であり、幾つかの母屋が連なる。 写真の左から右に行くほど、この家の重要度、格式、地位が増し、最奥には蔵が設けらるといった具合に、実に明快なヒエラルキーを持った空間構成である。そして僅かばかりの敷地を利用し、庭園が設けられている。低い土塀越しに老年期の中国地方の風景を借景としているのだろう。こうした往事を今に伝える風景は、これまで日本映画の舞台となったことでも、知られている。
 
Canon EOS Kiss Didital  F3.5-5.6/EF18-55mm
Canon EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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番外編8. シンポジウムと作品展から

2008年03月10日 | Nagoya city
 二つの懐かしい場面に出会った。 一昨日の土曜日、 名古屋大学豊田講堂シンポジオンホールで行われた、健康デザイン研究会のシンポジウムに出席した。名古屋市立大学芸術工学部の生みの親である、柳沢先生(初代学部長)が、かねてより主宰されている研究会である。シンポジウム・テーマは病院と大学のファシリティマネージメント(FMと略す)。
 私がFMという言葉に出会ったのが、1990年初めにプロデュースの立場で関わったニューオフィス・プロジェクトであった。当時聞き慣れない言葉だったが、その概念には興味があった。というのも、従来建築はつくられ、引き渡されてハイ!終わり!!というのが通例であった。FMが引き渡し後の建築の運営に、深く関わってゆこうとする点では、私が行ってきたプロデュースと共通点があったからだ。
 現在、病院はもとより、FMは建築の運営には、不可欠の概念であり、私も少なからず余暇研究会を通じてFM研究を細々と行っている。特に独立行政法人化後の大学運営には、FMは重要な運営手法であり、実際名大では、専任のFMマネージャーをおいて、キャンパス環境や施設管理から大学経営迄、統括的にFMが行われ、その社会的評価も高い。
 もう一つ懐かしい場面を紹介しよう。名古屋市市民ギャラリー矢田で先月開催された、芸術工学部卒業・修了作品展の新企画として、OB・OG達の活動を伝える作品が展示されていた。下段の写真は、何れも私のゼミの第一回卒業生である。左の安藤君は、プロデュースに関する卒業論文を執筆し、大学院に進学し、その後日建設計名古屋支社に勤務している。名古屋の街を歩いていると、安藤君が設計に関わった作品を実際にみるようになった。右側の作品は、僕のゼミで建築の卒業制作を行い、中日新聞社に就職し、現在写真記者をしている福沢君の活躍を示している。彼の取材による、建築家黒川紀章の取材記事と取材ノートを展示していた。写真も福沢君が撮影している。しっかりノートの裏にサインをもらってくるあたりの抜け目のなさは、大学時代からの気質だね。(笑)
 そのほかにも、懐かしい顔を思い出す作品に出会った。こうしたOB・OG達の作品群をみていると、随分一緒にコンペもやったし、締め切り時間というプレッシャーのなかで一緒に徹夜もした頃の記憶を思い出す。さすが、一期生だね。
 今では学生が声をかけてコンペをすることも皆無だし、徹夜といっても、昼と夜とが逆転しているだけで、実習室も教員の来ない開放的遊び場と化してしまった。学生気質も随分変わったと思う今日この頃である。
 
RICHO R8
Canon EOS Kiss Didital  F3.5-5.6/EF18-55mm
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Landscape39. 山陽路・成和町吹屋1

2008年03月07日 | field work
 長期ロード4日目の午後は、倉敷から伯備線に乗り備中高梁駅、そして車に乗り継ぎ吹屋に向かった。中国山地のまさに山の中にある吹屋は、保存状態が大変良く、また修復も行われているために、国伝統的建造物群保存地区のなかでは見応えがある。中国地方特産の石州瓦屋根と紅殻格子など、華麗さを感じさせてくれるが、ここを訪れるビジターは少なく、大変静かな集落である。
 吹屋は、江戸時代から周辺銅山から産出される銅の余剰である「ローハ」(結晶硫酸鉄)を用いた紅殻の生産を行っていた。紅殻窯元は、これによって得た資本を基に事業の多角化を進め、吹屋の町並みを形成し、また近隣山林や田畑の大地主として、この地域への影響力を持っていたのである。
 既に見てきた御手洗が遊興娯楽、竹原が物流商業、そして吹屋は生産工業といったように、町を大きく発展を発展させてきたのは産業基盤の存在である。戦後、社会構造の変化や化学原料の登場によって、それらの町の役割が終わっても、今なお残る町並みには往事の反映が伺える。
 通りを歩くと、人々の気配が感じられず、静けさだけが漂う。しかし無人ではなく、表屋の背後には人々の生活が存在している。地元住民に聞けば、この辺りでは一番居住者が多いところだという。伝建地区の空間構造の特徴である、民家の背後に設けられた家屋で、この集落の生活が存在しているのである。彼らの生活からみれば、私達が歩いている通りは裏通りにあたる。
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.


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Landscape38. 山陽路・倉敷3

2008年03月06日 | field work
 風景創造という視点からは、期待できない建築家が多い我が国にあって、少数ながら優れた風景を創造してきた建築家が倉敷にいた。浦辺鎮太郎[注1]である。
 建築家浦辺の壮年期にあたる頃、我が国建築界は丹下健三を頂点とするモダニズム様式が興隆を極めていた時期である。だがこの時期に世に知られた彼の作品はみられない。建築家浦辺が華々しい作品を世に送り出すのは、60歳代になってからであり、年齢順で代表作品をみると、大原美術館分館と倉敷国際ホテルが60歳、その後建築界建築学会賞を始めとする多くの賞を得た代表作「倉敷アイビースクエア」は71歳。以後77歳で倉敷市庁舎。また55歳から78歳の間にピースミール的に進めてきた倉敷中央病院がある。
 当時の都市住宅という雑誌で倉敷アイビースクエアの紹介記事をみたとき、私は大変驚いた。倉敷紡績の赤煉瓦工場の外観をそのまま残し、内部に二つの広場と宿泊機能を盛り込んだ手法は、建築再生というコンセプトの先駆けであった。そのデザインも、当時のモダニズム様式が最も軽蔑してきたクラシック様式を大胆に多用しており、当時主流の建築様式とは、あきらかに乖離していた。以後建築家浦辺は、クラシック様式を多用した建築を次々と、倉敷の風景の中に登場させてゆくのである。こうした一連の作品を通じて、伝統に媚びを売ることなく、江戸、近代、現代と時間の流れを感じさせる奥行きのある倉敷の風景を創造してきたのである。
 一般的に考えれば、伝統に対峙したときに、伝統様式を取り入れることは、容易に周囲の風景とも馴染みやすいように素人目には見える。これは二流の建築家や自治体の役人達、或いは一般大衆が好む発想なのだが、実際そのように形成されてきた風景は単調であるばかりか、時間の経過とともに安易な姿勢ばかりが漂い、次第に陳腐化してゆくことを私は経験している。 そんな発想では、長い時間のなかで地に根をはって生き抜いてきた力強い伝統的風景と調和することはできない。伝統的風景の力強さは、まさに長い時間を生き抜いてきた事実そのものなのである。そうした事実が持つ力強さに対して、立ち向かうことができる新しい答えを提案してゆくことが、風景創造であり調和なのである。
 世の多くは大きな勘違いをしているが、調和というのは、周囲に合わせるという安易な姿勢を意味しているのでは断じてないのである。それはむしろ単調と陳腐化にすぎないということを再度申し上げておく。
 

注1.1903-1991年,倉敷市出身,主に作品は以下.
日本工芸館(1960),倉敷レイヨン岡山第二工場 (1960),大原美術館分館 (1961),倉敷国際ホテル (1963),倉敷ユースホステル (1965),倉敷レイヨン中央研究所 (1968),倉敷公民館/旧倉敷文化センター (1969),倉敷市民会館 (1972),倉敷アイビースクエア (1974),倉敷市庁舎 (1980),横浜開港資料館 (1981),日本女子大学成瀬記念館 (1984),神奈川近代文学館 (1984)等
 
 
EOS3,EF F3.5-5.6/28-135mm
エクタクローム,CanoScan.
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