みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#14 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月20日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:42分25秒から46分19秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

このあたりから、いよいよ本題に入ってくる。

全編重要なテーマで埋め尽くされているが、ここからが本番。

◇◇


それから、イエスは座る場所を見つける。

マタイ伝にこう書いてあります。

婦人たちの庭がある宮の献金箱のあるあたりに、彼が教えていた大庭があった。

男や女、見知らぬ人たちが集うことのできる場所だった。

そして、彼は座った。

疲労困憊していた。

彼は見上げた。

そこには、ラッパ型の容器が13個あり、人々がやって来ては、その到着を知らせるためにラッパを置き、陳列台の上に献金を置いた。

金持ちが進物を献金箱へと投げ入れるのをイエスは見ていた。

マルコには次にように書かれている。

マルコ12章41節、「彼らは有り余る中から投げ入れた。」

その宗教体系が要求していたのはまさにこれだった。

施しものによって救いを買い取るシステム。

この宗教の御用達は裕福になっていった。

その時、ある貧しいやもめがふたつの小さな銅貨を投げ入れるのをイエスは見た。

1レプタは1デナリの132分の1で、ユダヤ人が使用していたコインの中で最小。

ローマのコインにはカエザルの顔が彫られていたため、ユダヤ人は偶像と見なし使用するのを控えていた。

代わりに、彼らにはユダヤコインがあった。

ふたつの小さなペニー貨、すなわちふたつの小さな銅貨。

イエスは弟子たちに話しかける。

彼らはその町を離れ、門を通り抜ける。

荘厳で、50年間工事中、至る所に金が散りばめられた荘厳なヘロデ神殿、この裕福な宗教から今離れようとしている。

彼らは出ていく。

出ていく前に、このことに注意を喚起し、弟子たちにこう言います、「あの貧しいやもめは他の人たち全員よりも多く投げ入れた。というのも、彼らはみな自分たちの余剰分から献金したが、彼女は自分の貧しい中から、生きていくのに必要なものすべてを投げ入れた。」

この箇所に関する説教をかつて聞いたことのある人はいるでしょうか。

この箇所に関する説教を聞くと献金する人がいます。でしょ。

嗚呼、主よ。このやもめから学ぶことがありますように。

ここでは何が起きているのでしょうか。

「これが犠牲の原則です」と人は言います。

確かに、その通り。

これが一定の原則だと言うのであれば、確かに原則はあります。

あなたが持っているものを100%与えて、家に帰る。

(すると何が起きるか)

すると死んでしまいます。

これが原則です。

それが彼女がしたことです。

「彼女は生きていく上で必要なものをすべて投げ入れた」と書いてあります。

ギリシャ語原典には、「彼女は自分の命をすべて投げ入れた」とある。

それがここで起きていることなのです。

そして、死ぬために彼女は家に帰って行った。

イエスが基本的に言っていることは、「より多く持っている人は余剰分から献げる。彼女が献げ物をした後、彼女の所持金はゼロだった」ということ。

もしもこれが献げ物に関する授業であるなら、ここから明確に知ることのできる唯一の授業というのは、すべてを献げ家に帰ると、誰かが献げた以上のものを持って来てくれるか、それとも死ぬこと以外にはない。

これは聖書的ではないと思う。

「いやいや違う。この授業というのは、彼女が見せた実に良い態度だ」と言うかもしれない。

そうだろうか。その態度は何処に書いてあるのか。

何処に。

彼女の態度について書かれている箇所は何処か。

彼女の態度に関することばは一言もないではないか。

どういうことか。

彼女の態度について何も書かれてはいない。

 

 

 


#13 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月19日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:39分55秒から42分25秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

彼らの神学が彼らを太らせ、孤立化し、利己的にしたのです。

そして、最も悩んでいる人々、もっとも打ち負かされた人々、そして最も無防備な人々に背を向け、徹底的に焼け太り、自分たちの宗教的帝国を建て上げて、霊的偽善者に成り下がっていったのです。

さて、彼らの宗教体系によれば、罪ゆえに、やもめは神によって罰せられる。

そういう宗教体系だった。

そして、その体系の中のトップにいる女性は、第2級市民から始めることができた。

それゆえ、彼女たちはやもめを最下層として見下し、軽蔑していた。

彼らはやもめの家を食い荒らし、同時に、見た目を気取るために、霊的詐欺のために長い祈りをした。

これらにより、彼らは極めて重大な罪の宣告を受けるであろう。

次の箇所ですが、私たちを震撼させます。

「彼は見上げた。」

聖書釈義に関する初めての講義を今から始めましょう。

このイエスの仕草はどういう意味を持っているのか。

「彼は見上げた。」

これは、それまでイエスは見下ろしていたということを意味します。

さあ諸君、まだまだ続きますよ。

共観福音書から総合的に判断すると、イエスは疲れ果てていた。

きつい日が1週間続いた。

長い1週間だった。

マタイ23章に記録されている猛烈な非難演説をまさに吐き出したところだった。

一日中群衆によってもみくちゃにされながら、容赦のない演説を吐露した。

彼は疲れ果てていた。

心は深く悲しんでいた。

月曜日、イエスが最初にその町に入った時、彼は何をしたか。

涙を流した。

泣いた。

心をひどく痛めていた。

前の日、宮を清めた。

その日の終わりに、また戻ってきた。

彼らがイエスを受け入れるつもりがないことを知っていた。

気まぐれな群衆は指導者たちに従うことも知っていた。

群衆に、「気をつけよ」と言ったが、彼らはそうしないことも知っていた。

指導者たちが群衆を扇動すると、「十字架に付けろ、十字架に付けろ、十字架に付けろ」」と言うことも知っていた。

そして、指導者らとともに地獄に落ちていく。

 

 

 


#12 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月18日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:35分22秒から39分55秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

主である神(Yahweh)が、私の主(Adonai)、すべて私(神)のパワーが与えられたお方、私(神)が支配者とするお方に話している。

これがメシアであり、神なる人。

その時点で、最後の招待はイスラエルに対して完結した。

それに続いて悲劇が起きる。

われらの主の最後のことばが来る。

すべての民衆が聞いている中、彼が公然と話した最後のことば。

最高の人生を送る方法、ではなかった。

あなたがたを覚醒させるために、それを投げ入れようと思った。

彼が公然と話した最後のことばとは、「気をつけよ。」

「律法学者に気をつけよ。彼らは長いローブを着て歩き回るのが好きだ。市場でいんぎんな挨拶をしたり、シナゴーグの上席や晩餐の特等席をひたすら好む。やもめの家を食い荒らし、うわべを飾るために長い祈りをする。より重大な非難を受けるであろう。」

背教のユダヤ教に対して重罪を宣言する。

キリストが決して容認できなかった唯一のこと、それは偽宗教だった。

彼の最後のことばは警告だった。

さて、ルカには2節にわたって書かれています。

マタイは彼の全スピーチが書かれている。

マタイ23章、読んでください。

マタイ23章は猛烈な呪いであり、イスラエルの偽指導者たちに対する痛烈な非難。

聖書的キリスト教の実際を否定する偽宗教をあらん限り非難するがゆえに、これはイエスの最後の捨て台詞なのです。

ルカは2節で言及しています。

マタイは、ほぼ40節まで広げています。

イエスは彼らを偽善者と断定しています。

マタイは、全文掲載している、偽善者、偽善者、偽善者、偽善者。

彼はそれをくり返し、くり返し、くり返し、くり返す。

災い、災い、災い、呪い、呪い、呪い。

イスラエルの宗教指導者たちを呪った後、その宮を出ていき、人々に警告した。

「連中から離れなければ、ともに堕ちていくであろう。」

ルカ伝には、ひとつの行ないのみ記載されています。

それは魅力的です。

イエスは彼らの偽善的態度について言及します。

長いローブを着て歩き回ったり、長い挨拶が好きだなどなど、上席、高慢、利己的、独善的。

そして、唯一の罪深い行ないがある。

彼らはやもめの家を食い荒らす。

これは唯一特異的な罪ある行ないであります。

ギリシャ語のKatesthioとは、「消費する」「分捕る」「食い尽くす」。

この宗教はどれほどひどかったのでしょうか。

全く無防備な人々を犠牲にして、責任ある人々が金を設ける場所に成り下がっていたのです。

それだけ、ユダヤ教は堕落していたのです。

御心とは程遠くはなれてしまっていた。

旧約聖書全体を通して、神の御心とは、貧しいものたちの面倒を見ることでありました、そうではないですか。

ヤコブ2章に何と書いてありますか。

「純粋無垢な宗教とは、やもめやみなしごの面倒を見ることである。」

これが神の御心であります。

優しい憐れみ。

神学ではなく行ないより鑑みて、それが背教のユダヤ教の惨状だった。

◇◇

イエスが最後に残したことばは「気をつけよ。」

誰に気をつけよか。

もちろん、パリサイ派と律法学者だ。

現代のキリスト教教会に適応すれば、山羊(リベラル)に気をつけよ。

他の異端は分かりやすいが、リベラルは羊をかぶっているので慎重に検討する必要がある。

日常の何気ない言動や行ないに本性(反聖書的言動)が顕われるので判別が可能となる。

地獄への道連れにされないように気をつけよ。

改革派神学的聖書解釈が最も真理に近い(安全)と断言する。

但し、狭き門であるので努力と忍耐が求められる。

◇◇

賛美:

 Acapella worship songs with lyrics

 

 

 

 


#11 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月16日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:33分00秒から35分22秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

 

彼は遍在性の特性を有しており、望むならば常に至るところに存在することができた。

彼は全知だった。

人から教えてもらわなくても、人の心の中にあるすべてを知っていた。

故に、彼は無限の知識を神と共有した。

彼は不変だった。

今日、昨日、そして永遠に、彼は同一であり、常に聖、聡明、主権者、愛、永遠、栄光、不変。

彼は礼拝を受け入れた。

彼を祈りによって求めることができる。

あらゆる意味において、彼は神である。

彼はいくつかの称号を神と共有した:岩、躓きの岩、救い主、贖い主、聖なるお方、主の主、王、最初であり最後である方、などなど。

イエスキリストの生涯を見る時、彼は神であるということを啓示的に知ってもあまり驚きはしない。

このことに関する古典的なアプローチは次のようなことであります。

もしも神が人となるなら、その人の人生は罪がないことが期待される。

彼の人生はそうであった。

もしも聖なる真の神が人であるなら、その人は完璧に義なる生き方をすることが期待される。

彼はそのような生き方をした。

もしも神が人であるなら、その人のことばはかつて語られた言葉の中で最も偉大であることが期待される。

彼のことばは最も偉大であった。

もしも神が人であるなら、その人は人間であることを超越して、深淵で比類なきパワーを発現することが期待される。

彼は発現した。

もしも神が人であるなら、超自然的な実演が期待される。

多くの実証があった。

もしも人が神であるなら、その人は神の愛を明らかにすることが期待される。

彼は明らかにした。

彼の宣教活動全体は、憐れみ、悪魔憑き、死、病いの惨状からの解放の宣教であった。

このお方がダビデの子であり、ダビデの主であったという結論以外の結論は存在しない。

彼らはそれが分かった。

マタイは補足説明を加える。

マタイ22章46節、「彼に誰も一言も答えることができず、あえて他の質問をする者もいなかった。」

残念ながら、彼らは信じたとは書いていない。

逆に、彼らの憎しみは増幅してしまった。

これが「最後の招待」だった。

イエスが与えた最後の招待、すなわち「私は人であり神、ダビデの子でありダビデの主」であるということを知るための最後の機会だった。

 

 

 

 


#10 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月15日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:30分04秒から33分00秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

 

ダビデがメシアを自分の主と呼んだ時、それは聖霊による啓示だった。

「主は私の主に言った、あなたは統治・支配するであろう人。」

通常、詩篇110編はメシアに関する箇所。

通常、初代教会までは、ユダヤ人によって、それはメシアとして解釈されていた。

この箇所はメシアに関する詩篇であるとユダヤ人は認識をしていた。

ちなみに、新約聖書記者によって最も頻繁に引用されているのがこの詩篇であります。

メシアの特性、ダビデの家系、メシア自身の神性を立証するために、われらの主はこの詩篇を使っているのです。

数百年もの間、ユダヤ人がその歴史的解釈を廃止してきたイエスのメシア性を証明するために、この詩篇は初代教会において極めて積極的に使用されてきました。

彼らはそれをアブラハムやメルキゼデク、ユダス・マカベウスにまで適応しました。

その預言的要素、ダビデの家系を拒絶したい人たちや、イエスキリストの神性を絶対に拒絶したいラビや批判家によって、イエスのメシア性は絶え間なく攻撃されてきました。

イエスは言った、「ダビデは聖霊によってそれを語った。」

イエスは「ダビデはメシアである自分に関して予言している。メシアはダビデの主である」と言ったのです。

神はダビデの主に何と言ったでしょうか。

「私があなたの敵をあなたの足台にするまで、右の座に座していなさい。」

彼を右の座に置くと言うことは、彼を同等の地位に置くと言うこと。

右の座とは権力を表します。

旧約聖書は、神の力を神の右の座と呼びます。

御子であるメシアに、神はすべてのパワーとすべての権威を付与しました。

新約聖書においてくり返し聞いていることであります。

以上から、メシアとは人間的にダビデの子であると同時に、神的にダビデの主となるのです。

メシアはダビデの子であり、神の子でもあります。

ダビデの子であり、ダビデの主でもある。

ヨハネは書いています、「私たちは彼の栄光を見た。御父のひとりごとしての栄光。満ち満ちた栄光と真理。」

これが、ひとりごであるイエスに関する唯一の説明であります。

彼には神性において創造する能力があることを示した説明であります。

彼は父なる神と全能性を共有した。

彼は基本要素を支配した。

彼はあらゆる生物を支配した。

彼は食べ物を創造した。

彼は健全な体を創造した。

彼は死人をよみがえらせた。

彼は罪を赦した。

彼は裁きを宣告した。

 

 

 

 

 


#9 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月14日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:26分41秒から30分04秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


彼と不妊の妻エリザベツの間に、神は子(メシアの先駆者となる)を与えるおつもりだったので、メシアが来るであろうと知った時、ゼカリアは聖霊に満たされた(ルカ1:67)。

彼は預言した、「イスラエルの神、主を賛美せよ。神は私たちのところへ来て下さった。主の民のため贖いを成し遂げて下さった。神のしもべ、ダビデの家に住まう私たちのために、神は救いの角を立ち上げて下さった。」

メシアがダビデの息子であることは皆知っていた。

イエスはダビデの子ではないと神殿記録が示していれば、イエスの神性やメシア性に対する攻撃はさほど辛辣ではなかったのかもしれない。

しかし、パリサイ派も律法学者もそれを調べ上げていることは明白である。

さて、メシアは神殿が破壊される前に来なければならなかった。

何故から、神殿が破壊された後の記録はすべて消失してしまったからだ。

彼らの答えは的中した。

イエスはダビデの子だった。

彼らの答えは真実だった。

ただし、それだけでは不十分で、答えの残りに関して、42節において主は手短な説明をしています。

41節、「キリストはダビデの子だと彼らが言っているのはどうしてですか。」

「詩篇の中で、ダビデは次のように言っている。主は私の主に言った、私があなたの敵をあなたの足台にするまで、私の右の座に座っていなさい。ダビデが彼を主と呼んでいるのに、どうして彼がダビデの子なのか。」

これは驚くほど素晴らしいことばであります。

自画自賛ではない。

中東の父親は、自分の息子を「主」と呼ぶ習慣はあったようです。

ダビデが自分の子を「主」と呼んでいるのは何故でしょうか。

詩篇110編にあるアドナイ(YHWH)とは誰か。

ダビデはメシアを「主であり神」と呼んでいる。

主は私の主に言った、「私があなたの敵を足台にするまで、私の右の座に座っていなさい。」

このことばは詩篇2編に似た内容です。

メシアが来て、支配し、すべての敵が足の下に置かれることを告げるメシアに関する詩篇。

この種の描写は、王家がすべての民の上に引き上げられ、すべての民が支配者の足の下へ置かれた古代王朝に由来します。

44節、イエスはひとつの質問をする、「ダビデが彼を主と呼んでいながら、何故彼がダビデの子なのか。」

ダビデは間違いを犯したとするユダヤ人注釈者がいます。

おっとっと、ダビデはそんなことは言わなかった。

マタイ22章43節に、「彼は霊において語った」と書いています。

そのため、「彼自身の人の霊において」ではないかと考える批判家がいます。

そこで、マルコ12章36節、「彼は聖霊によって語った。」

 

 

 


#8 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月13日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:23分30秒から26分41秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇


そして、41節。

イエスは彼らに言った、「キリストがダビデの子と彼らが言っているのはどうしてか。どうしてそのような結論に至ったのか。」

それが彼らの望み得る限界だった。

それが彼らの到達し得る限界だった。

それが彼らの理解し得る限界だった。

彼らのメシアに関する考え方は、基本的に腐食だらけだった。

それのどこが間違いかって。

それは不完全であり、不完全イコール間違い、ということになる。

問題はシンプルです。

弟子たちはそのことがよく分かっていた。

すべての人を代表して、神の啓示によってペテロは、「あなたはキリスト、生ける神の御子です」と言いました。

ダビデの子、その通り。

神の御子、その通り。

しかし、ユダヤ人にとって、答えは厳格に「ダビデの子」だった。

イスラエルの王座に対する権利を有する者、それがメシアであります。

ユダヤ人であれば誰でもそのように答えていたでしょう。

彼らはみなそれを知っていた。

それが旧約聖書の教えであります。

第2サムエル7章、詩篇89編、エゼキエル書37章、その他多くの箇所にそう書いてある。

ざっと目を通せば、マタイ伝が恐らく最も良い箇所ではないかと思います。

人々の言っていること、大衆の言っていることを聞いてみましょう。

例えば、マタイ9章27節。

イエスはそこを通り過ぎようとした時、ふたりの盲人が彼の後をついてきた。叫びながら、「私たちを憐れんで下さい、ダビデの子よ」と言った。

イエスがエリコを通って行こうとした宣教活動後半に、ルカは18章で触れています。

ルカ18章に、イエスはもうひとりの盲人と出会ったとあります。

物乞いの盲人はお互いにたむろする傾向にあります。

だから、彼ら二人と出会って、そのような機会が2度あったとしても驚くには当たりません。

彼らはイエスに向かって叫んだ、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください。」

マタイ12章、「盲人で口もきけない、悪魔に憑かれた男がイエスのもとに連れて来られた。イエスが癒したので、口のきけなかった男は言葉を話し、あたりを見た。すると、大勢の者たちは驚いて、「この男がダビデの子であるはずがない、そうだろう」と言い始めた。

それがすべての人の理解していたこと、メシアはダビデの子、だった。

ところで、欄外注にあるように、だからこそ、マタイの系図やルカの系図があることは極めて重要なのです。

マタイ伝においてはヨセフの系図であり、ルカ伝においてはマリアの系図であります。

両者の場合、つまりいずれの家系図においても、イエスはダビデの系列出身であります。

母方の系図からイエスは王家の血族であり、父方の系図からイエスは統治する権利を有しています。

メシアがダビデの子であることを否定する人は誰もいませんでした。

旧約聖書によれば、それは正真正銘の真実です。

事実、ゼカリアが良い例証となります。

ゼカリアは、バプテスマのヨハネの父であります、ルカ1章。

 

 

 


#7 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月12日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:20分03秒から23分30秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

要するに、メシアは人であるとユダヤ人は考えていたようです。

メシアは人であって、天使ではなく、神でもなく、人であると信じていた。

しかし、ただの人ではなく、ダビデの子であると。

彼らがそう信じていた理由は、それが旧約聖書の約束だからだ。

ダビデの長子は、第2サムエル7章に約束されている。

各人で確認して下さい。

ダビデの長子がやって来て、永遠の王国が樹立されるであろう。

メシアは人として来るであろうと彼らは期待していた。

彼は、王権を有するダビデの子孫に属する男であると。

彼は、力を突き抜ける莫大なパワーと影響力を持つ男であると。

そして、ローマを始め、すべてのイスラエルの敵を打ち破り、アブラハムとダビデに与えたすべての王国の約束をたちどころに成就し、イスラエルに完全な救いをもたらすだけでなく、預言者たちを通してくり返された王国の約束すべてを成就される男であると。

弟子でさえもそう思っていた。

イエスは王国をもたらしてくれると弟子たちは思っていたとルカ書に書いてある。

しかし、彼は単なる人、ダビデの長子であると人々は考えていた。

そこで、イエスに関して、次のような究極の疑問が湧いてくる。

イエスは単に人にすぎないのだろうか。

41節から44節までを見て頂きたい。

「最後の招待」と呼ばれる箇所であります。

最後の招待。

月曜日にはそれほど活気に溢れていた群衆でさえ、金曜日には、「十字架に付けろ。十字架に付けろ」と叫んでいる。

指導者たちによる憎悪にもかかわらす、またどっちつかずの群衆による気まぐれな興味にもかかわらず、依然としてイエスは憐れみ深き福音宣教者だった。

最後の時、イエスはご自身が誰かを明言する。

信じる罪人が信じることができるように、信じない罪人が信じることができるように。

マタイ22章41節には次のように書かれています。

イエスは、「あなたがたはキリストについてどう思うか。キリストは誰の子か」と問うた。

イエスが聞いた質問とはこうだった、「あなたがたはキリストについてどう思うか。キリストは誰の長子か」と。

すべての聴衆が聞く中、パリサイ派と律法学者に対してイエスはこれを問うた。

マタイ22章42節にこう書いてある、「ダビデの子と彼らは答えた。」

ダビデの子。

このことは全員が分かっていた。

ところで、「あなたがたはキリストについてどう思うか。キリストは誰の子か」という質問を持ちだした時、マタイ伝のテキストにおける限定的な記事を見出すことができます。

その瞬間、イエスはその場から距離を置いています。

単純に、イエスの質問は、「メシアに関するあなたの見解は何か。彼は誰の長子か。」

彼らは、「ダビデの子」と答えた。

 

 

 


#6 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月11日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:16分53秒から20分03秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

それから、今回は騙されることを知りつつも、オリーブ山へと向かった。

真夜中を過ぎていた。

夜中3時前にイエスは死んだ。

何故なら、過ぎ越しの羊が屠られるまさにその時間に、イエスは死ななければならなかったから。

金曜日、土曜日、日曜日に墓の中にいるように、太陽が昇る前にイエスは墓の中にいる必要があった。

すべてにおいて、彼はコントロールされていた。

今日は水曜日。

今日は水曜日。

公的宣教活動最終日。

神の国を宣べる。

疲労困憊の長い一日。

抑制の効かない激情によりイエスを憎む宗教指導者たちと相対した。

この憎しみは長期間続いていた。

イエスが登場し、宮を清め、宗教体系に一撃を食らわせて以来、この憎悪は数年間続いたと言った方が正確だろう。

その一撃によって、その機能が混乱しただけでなく、その完全性と正当性は貶められた。

彼らがイエスを憎んだのは、彼らの背信行為を強襲したからだ。

彼らがイエスを憎んだのは、彼らの神学、権力の座、ローマとの脆弱な停戦協定を強襲したからだ。

偽の正義を強襲した。

イエスは、曖昧な方法でそれを行わなかった。

彼らを公然と非難した。

彼らの退廃と偽善を暴露した。

そのために、彼らは激しくイエスを殺そうした。

とりわけ、自分は神に等しいと主張したが故に、イエスは神を冒涜したとして憎んだ。

しかし、彼らの言動こそが究極の冒涜だったのだ。

イエスが最後の日に公然と宣べる最後の機会において、彼が話すことばを聞くことは大変重要である。

イエスの最後のことば、最後のメッセージ、それは何だったでしょか。

それは彼のアイデンティティに関するものでした。

イエスとは何者か。

3年間彼は弟子たちに話し続けてきた。

来る日も来る日も来る日も、彼らに話し続けてきた。

彼はその主張を何度も何度もしてきた、そしてそのことを実証し、それを支える証拠を無数に示してきた。

しかし、ここで彼は再度その問題を取り上げるのです。

少し戻って、ユダヤ人は自分たちのメシアはどのようなお方であると期待していたでしょうか。

彼らはメシアとはどのようなお方であると考えていたのでしょうか。

 

 

 

 


#5 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月10日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:13分32秒から16分53秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

宣教活動の初めに、イエスはユダヤ教体系の背信性を宣言し、その体系に神の裁きが下ることを断言しました。

これはヨハネの福音書2章に記録されています。

宣教活動の最後に同じ行為を行ないました。

芯まで腐っていた。

芯まで腐り切っていた。

パリサイ派は偽善者でした。

律法学者は偽善者のパリサイ派でした。

律法学者は、パリサイ派の宗教を告げ知らせる律法の専門家でした。

パリサイ派は、ユダヤ教の全形態の中で最もよく知られたシナゴーグ制を通してあの宗教を調達する人々でした。

サドカイ派や他のユダヤ教宗派は神殿関連企業を運営していました。

腐敗は起こるべくして起きたのであります。

人々が持ってきた献げ物を信用せず、自分たちが売っている献げ物を人々に買わせることによって、人々から金品をかすめ取っていたのです。

両替についても、彼らは人々をだましていました。

女性たちのご機嫌を満たす13種類のラッパ形の容器にお金を投げ入れることによって、神の祝福を買うことができるといった、ありとあらゆる金儲けの方法を編み出したのです。

人々は行列を作って、それらの容器にお金を投げ入れていたのです。

ラビたちは、バランスシートを作って、人は贖いをお金で買うのですと教え続けました。

腐敗したシステムでした。

お聞きの通り、それは、行ないによる義、行ないによる義の達成、露骨な偽善です。

火曜日に、イエスは宣言します、「お前たちは、神が確立した方法によって、真の生ける神のとの交わりの場である祈りの家であるはずの父の家をかすめ取ってしまった。お前たちはそれを強盗の住処に変えてしまった。」

自分たちが裕福になるために、彼らは何も知らない人々から盗み取っていた。

ユダヤ教は、最悪の状況へとなり下げっていた。

こうして後、その日の後半、イエスは人々に教え、関わり、神の国のことを話した。

オリーブ山に戻り、イエスはゲッセマネの庭にある場所を見つけ、横になり眠った。

水曜日、元の場所に戻った。

イエスが公然と教えを説いた最後の日となった。

この日は大変重要な日。

イエスが教えた最後の日。

イエスが言った最後のことばであります。

水曜日の終わりに、東側から神殿用地から出て行って、同じ坂を下り、オリーブ山へ登り、弟子たちとともに座り、この場所へは二度と戻って来ないことを彼らに告げた。

いつの日にか、イエスは栄光に包まれて戻って来るのでした。

これがイエスの公的宣教活動の最後でした。

水曜日と翌木曜日、イエスは弟子たちといました。

木曜日の夜、彼らは過ぎ越しの祭りを祝った。

ヨハネの福音書13、14,15、16章に書かれていることをすべて弟子たちに教え、弟子たちが見ている前、聞いている前で、ヨハネ17章にある大祭司の祈りを祈った。