みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#156 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月06日 | 終末預言 

The Eye of the Needle (Mark 10:23–31)
https://www.youtube.com/watch?v=jdaxrEA7ZpA&t=1s

訳出時間枠:25分23秒から

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

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自営業から離れた後も、何かまだ残していないものあるのではないかとイエスに叱られていると思い、ペテロは激しく反論しました。

「あなたに従うために、私たちはすべてを捨ててきました。」

イエスは言います、「確かに、私は言いました。私のために、福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てて、その幾倍を得ない者はいない。」

このことについて、コメントをしておきます。

今朝、この部屋にいる人たちを、あなたがたは知っています。

あなたのまさに隣にいる人を知っているはずです。

この人たちは今そのことを実行した人たち、つまり自分の家庭を捨て、自分の家を捨てた人たちです。

愛する人たちと離婚したかったからそうしたのではなくて、キリスト故に、福音のためにそうしたのです。

神学の領域において、福音に関して激烈な論争が湧き上がった数年前のある日の夜、コーラルリッジ長老派教会の駐車場を歩いていたことを思い出しました。

論争の只中、私にとって極めて重要な知人を複数失いました。

頼りにしていた友人たちで、彼ら全員を失ったのです。

そのことで、私は大変落ち込みました。

その駐車場を横切ろうとしていた時、あることばが思い浮かびました。

「万力のやぐらが我らの神(神は我がやぐら)」

「物品も親族も手放せ」

「この死ぬべき命もまた」

「物品も親族も手放せ。この死ぬべき命もまた」

すきに手を置き、後ろを振り返りながら、イエスに従う人は神の国にふさわしくない。

振り返ってはならない。

イエスのために、福音のために、ただひたすら彼を見る。

そうするように召し出されたならば、この世におけるすべての事々を捨てる。

イエスはペテロに言います、「私は確かに、十分な確信をもって言います。もしもそうするなら、百倍を受け取らない者はいません。さあ、今この時、家、兄弟、姉妹、母、子、土地を迫害の中で失う者は、来たるべき時代に永遠の命を得るだろう。」

イエスは言います、「私のためにこれらの物を捨てるのなら、私はそれを絶対に忘れない。」

あなたが捨てるものを、私は100倍にして戻そう。

迫害を受けるであろうが、神の国とそれに帰属するすべてのものを受けるであろう。

そして、驚くべきことが待ち構えている。

この世において最初にあった多くのものが、神の国で続いているのを見るであろう。 

あまり重要視されなかった卑しい人たち、最後にいた彼ら、私の兄弟の中の若干名は、先頭にいるであろう。

何故なら、あなたを先頭に置く何かは、あなたの功績ではなく、キリストに対する忠誠と貞節だからです。

お祈りしましょう。

父よ、御神よ。手に触ることができるものに囲まれている私たちが、目に見えないものに信頼を置くことは大変難しいことです。それこそ確かな価値であり、買うべき力であり、利用すべき物でありサービスであります。そして父よ、あなたが高価な真珠を置いたその隣りにあるもの、その価値は他の全てのものを覆い隠し、木や切り株、ほし草にしてしまいます。イエスという価値全体をお与え下さい。主の御名によってお願い致します。アーメン。

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悪魔の道具になり得るもの(もちろん、自分の体も)すべてを捨てよという教え。

聖霊による支えのみならず、猛烈な努力と忍耐、艱難に対する訓練が必要と思われるのだが、人にはできないとも書いてある。

どういうことか。

努力して狭い門から入りなさい(ルカ13:24)。

努力は必要、しかし完成させるのは神。

Sproul師は、「そういう時がある」と言っている。

狭き門の先に神の国がある。