訳出時間枠:46分19秒まで49分37秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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彼女は貧しいやもめだが、相対的に他の人たちよりも多くを投げ入れた。
彼女は持っているものをすべて100%投げ入れた。
彼女の態度に関する記載はない。
「ここにおける献げものの原則とは、どれくらい献げるかではなく、献げた後にいくら残っているかだ」という人がいるかもしれない。
それも書かれてはいない。
少し元気の出ることを言いましょうか。
この記事には原則はないのです。
献げものに関する原則なんてありません。
献金に関するあなたがたが考える説教を取り上げて、献げものに関する話をします。
この箇所の文脈とはこうであります。
突然イエスは話します、「私はあなたがたに裁きを与える。律法学者とパリサイ人には気をつけよ。ところで、小柄で素敵な女性が通り過ぎて、コインをふたつ投げ入れた。もっと献げましょう。さあ、もっと。」
こうして、福音派の献金制度が始まりました。
地獄を宣べ伝えることのできる人がいるのです(笑)。
そして、もし献金について不満があれば、何時でもあなたがたは(献金を)やめるでしょう。そうですね。
さて、イエスは、愛の献金をしようとするバプテスト福音派ではない。
ここには、献金に関する原則は存在しない。
弟子たちも、「主よ、何を言いたいのですか。所持金全部持って、あそこまで走って行けとでもいうのですか。彼女に従います、主よ。さあ、お金を持っているのは誰だ。ユダが持っているはずだが、彼はここにはいない。」
「いや、ユダはまだお金をもっているはずだ。盗んだ金を。ユダ。有り金全部あそこに持って行って、投げ込め。しかし、私たちはそうすべきことでしょうか、主よ。死ぬのか、それとも誰か現れてお金をくれるのか。私たちの重荷を他人に着せるべきか。」
原則なるものは存在しない。
弟子たちは何も質問しなかった。
彼らは分かっていた。
イエスが彼女に命じたわけではない。
彼女のことを誇らしいとは言わなかった。
彼女には善意の心があるとイエスは言わなかった。
彼女には悪意があるとも言わなかった。
彼女の態度は良いとも悪いとも言わなかった。
イエスはこのことについて何も言ってはいない。
イエスが次のように言った、「ユダヤ教はあまりに堕落している。やもめの家を食いつぶす。ここにそのひとつの例がある。」
そう、ここに一例がある。
この貧しい婦人は衣食にも事欠き、神から慈悲を買おうと最後の数セントを捧げるほどに絶望していた。
資産家説教者の始まりがこれであります。
イエスは彼らに地獄を宣言しました。
「忌々しいものよ。貧困に喘ぐ人々や絶望のどん底にある人々を背に、自分らの私腹を肥やす者どもよ。金を献げれば、成功や繁栄、健康や富を約束する者たちよ。」
これは悲惨だ。
そこを離れようとした時、彼らは話し始める。
ルカ21章5節、彼は美しい石や奉納物で装飾された神殿について話していた。
奉納物は誓いと連結して与えられ、それらの誓いは違法な誓いだった。
神に誓いを立てれば、両親が必要な時でさえ彼らにお金を上げなくてもよいという話を覚えているでしょう(マタイ15章)。
その後、彼らは出て行った。