The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)
訳出時間枠:10分58秒から15分35秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。
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つまり、来たるべきメシアとして、ろばに乗りシオンの山に入城する王の姿が、旧約聖書におけるユダヤ人の意識の中に深く根付いていたことが分かります。
いまそのことが起きているとマルコは伝えているのです。
イエスは弟子たちに指示します、「行って、そこにつながれている子ろばをほどいて私のところへ連れてきなさい。」
さて、イスラエルを含め古代世界では、現代社会よりもはるかに厳しい土地収用権という概念がありました。
王の特権のひとつとして、王が必要とする時は何時でも、荷物運版用動物を徴用することができたのです。
それで、王として、イエスはこの権利を行使し、弟子たちに子ろばを連れてくるように命じたのです。
ここでもうひとつ注目すべきことがあります。
それは、誰も乗ったことのない子ろばであったということ。
楽しみのために、あばれろばに乗るというロデオがイスラエルにあるのかどうかは知りませんが、ちゃんとした荷物運搬用動物になるために、馬と同様に、骨を折っておく必要がありました。
ユダヤ人の歴史における大原則として、王の馬に乗ることは許されませんでした。
同様に、王のろばに乗ることも許されなかった。
王のみがそれに乗ることが許されたのです。
それで、ここでイエスは明示しています、「誰も乗ったことのない子ろばを持ってきなさい。」
それは王のために用意された子ろばだった。
彼は言います、「なぜこんなことをしているのかと誰かに聞かれたら、主がご入用なのですと言いなさい。そうすれば、その者は子ろばをここに送ってよこすであろう。」
さて、ここで、ある曖昧さがあります。
イエスは、「何をしているのかと尋ねる者がいたら、主(kurios)がご入用なのですと言えばよい」と言いました。
さて、このことばは、単純に、主人(sir、master)という意味であります。
あるいは、人民を統治する君主というより高位の意味を表す場合もあります。
イエスに対してこのことばをマルコが使うのは稀なのですが、ご自身のためにイエスがそのことばを使っています。
私の想像ですが、イエスは単純に「彼らにご主人が必要なのだ」と言っているのではなく、「統治者、ユダヤ人の王がその子ろばを必要としている」と言っているのだと思います。
だから、すぐにその者は子ろばをここに送ってくれた。
弟子ふたりが道すがらを歩いていくと、道路沿いのドアにつながれた子ろばを見つけた。
そこで、彼らはその子ろばの綱をほどいた。
しかし、そこに立っていた幾人かが彼らに、「その子ろばの綱を解いて、何をしているのか」と言った。
そこで、彼らはイエスが命じていた通りに彼らに話すと、彼らは行かせてくれた。
弟子たちは子ろばをイエスのもとへと連れてきて、その上に自分たちの着物をかぶせた。
そして、イエスがその上に座った。
再度、詳細について。
彼らが子ろばをイエスのもとに連れてきた時、弟子たちは上着を取り、イエスのためになるかのように、子ろばの背に置いた。
その続きは、他の福音書においても書いてある通りです。
イエスが行進を開始した時、人々は自分の上着を脱いで、子ろばの通り道に敷いた。
イエスがあの町へと勝利の入城を行なうパームサンデー(シュロの主日)に、人々の着物によって生み出されたかのようなレッドカーペットの上を、その子ろばは歩いていくのであります。
さて、これもまた旧約聖書にルーツがあるのです。
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賛美: