みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#4 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月09日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:9分46秒まで13分32秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

われらの主の生涯において、宣教活動は3年で終了しました。

最初の年はユダヤ地方における宣教活動、2年目はガリラヤ地方での宣教、そして3年目は再びユダヤ地方に戻りました。

イエスは神の国の福音を宣べ伝えながら、イスラエルの南部にあるユダヤを縦走し、町や村、そして都市を巡りました。

パレスチナ地方から病気を追い払い、神の力を実演し、ご自身が旧約聖書の成就であることを繰り返し告げました。

ご自身がメシアであると宣言し、ご自身の神性を断言し、病気や悪魔の力をご自身の力によって支配し、加えて、御力による死の支配のみならず、真理を提示することによってそれらのことを証明しました。

宣教活動の3年は終わりを告げました。

今ここに主を見出すのであります。

パッション週間の水曜日です。

イエスが最初にエリコへやって来たのは土曜日でした。

エリコの低地からエルサレムへと上り、ベタニアに到着しました。

その日は土曜日で、友であるマリア、マルタ、そしてつい最近復活したラザロ(エルサレムではほとんど話題にはならなかった)とともに休める場所を探していた。

しかし実際には、群衆を勝利の入場へと巻き込んだのはラザロの復活が大きかった。

日曜日(正確な日付も日曜日)、イエスはベタ二アに滞在し、多くの人々が彼に会うため、彼と話をするため、彼の話しを聞くために、彼のともへとやって来た。

実際に、イエスが堂々とエルサレムに入場したのは月曜日です。

ろば、正確には子ろばに乗って。

イエスがしようとしたこと、そして正確に彼がしたことは、ゼカリア書9章9節に書いてあります。

月曜日に、預言を成就するためにやって来た。

大勢の群衆がいました。

25万人と推定した人がいます。

彼らの心のうちには、彼がメシアであろうという思いが実際にありました。

それ以外に、病気や悪魔、死を打ち負かす力、そして真理に関する力強い宣言をどうやって説明できるのだろうか。

イエスのように話す者はいまだかつて誰もいなかった。

このような白熱した状況が生まれたのは、ラザロが生き返ったからだ。

オリーブ山へ出かけるために、その夜その地を離れた後、火曜日の早朝、イエスはその町に戻ってきました。

毎夜、イエスはオリーブでひと時を過ごしました。

弟子たちを連れ、エルサレムの東門から出て、緩い坂を下り、キドロン川を渡り、エルサレムの東側からオリーブ山へと向かったのです。

そして、オリーブの木々の大きな果樹園の中へと消えていきました。

どうして、そんなことをしたのか。

なぜなら、敵が彼を殺そうとしていることを知っていたからです。

日の明るい時間は、あるいは群衆の視界が届くうちは、彼らはご自身を逮捕することはできないことが分かっていたのです。

弟子たちとともに、夜の暗闇から自分の身を隠す秘密の場所が必要だったのです。

オリーブプレスという意味を持つゲッセマネと呼ばれる秘密の庭が与えられた。

そこにイエスは毎夜出かけました。

水曜日の朝、家に戻ると、心にあることが浮かびました。

イエスは何処にもよらずに神殿に行きました。

彼の宣教活動における2度目の神殿清めのためでした。

宣教開始の初めに一回清めを行ない、そして最後にもう一度神殿の清めを行ないました。

ユダヤ教のシステム全体を背信行為と断定することにより、ご自身の宣教活動を閉じたのです。

 

 

 

 


#3 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月08日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:5分52秒から9分46秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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大多数の事柄を正しく理解すれば、イエスの一部を取り違えても、天国に行けるだろうと思っているのではないでしょうか。

現代の福音主義の大部分を占有する寛容の新たな広がりを指し示している考え方ではないかと思います。

実際的に、キリストの福音を信じる必要はないという思想。

もしあなたが一神教を信じ、ひとりの真実なる神を信じるなら、特に、アブラハム、イサク、ヤコブの神を信じるなら、キリストを信じる必要はない。

特にユダヤ人のように、もしあなたが一神教徒であるなら、旧約聖書の真実なる神を信じるなら、イエスについて知らないかもしれない、イエスに関して多少取り違えているかもしれないが、問題はないだろうと考える。

しかし、その考えは、私が今読んだ箇所と絶対的かつ完璧に相反しています。

ご自身に関して誤った結論を下したユダヤ人に対して、イエスは次のように言います。

あなたは、より少ない裁きは受けない。

救いを持っていないだけでなく、弁解されないだけでなく、より少ない裁きを受けないだけでなく、あなたはより大きな裁きを受けるであろう。

事実、このユダヤ教の体系は、この宗教体系の象徴である差し迫るホロコーストへと落ちていきます。

すなわち、神殿は地に落ちようとしています。

一神教における神を信じる人たちを取り込むために福音を言い広めようとする人たちにとって、これは極めて恐ろしいメッセージと言えるでしょう。

神の裁きはユダヤ教の背教形態に下るであろうーこれはわれらの主イエスご自身からの啓示であります。

彼らの信じていたのは、唯一生ける神、すなわち創造主なる神、旧約聖書において語る神、預言者を通してご自身を明らかにし、律法を通して義なる特性を明らかにする神、裁きによって義なる特性を明示する神でありました。

旧約聖書の時代において、真の神に関して真理であったこれらすべてのことをユダヤ人は信じていました。

しかし、これだけでは十分ではないのです。

イエスは決して次のようには言わなかった。

「さて、私たちは多くの同じ意見を持っている。それらがどのように繋がっているのか見てみようではないか。話そうではないか。あなたを責めたくはない。話し合おう。」

クリスがコメントを書くからと言ってくれたので「真実の戦争」という本を書いた時、肥大化しつつある教会の人たちから矢継ぎ早の批判があるだろうことは分かっていました。

こういった批判であります:
「マッカーサーは只々非難したいだけなんだ。」
「彼は会話を望まない」
「彼は同じ土台を見出したくはないし、その共有する意見を祝いたくないのだ」


もう一冊書いて、これに反論しようと思っています。

第2段のタイトルは、「イエスはご自身の敵とどのように戦ったのか、会話によってか、それとも非難を浴びせてか。」

イエスは共通の基盤を探したか、同じ意見を見出そうとしたか。

あるいは、彼を拒絶する者たちの抑圧された性質を言い正したか。

簡単な質問です。

それを言うために、何故200ページを要したのか私には説明する義務がある。

そっちの方が大きな問題です。

分かりました。準備させて下さい。

最初のところに戻りましょう、そうすれば舞台設定できます。

 

 

 

 


#2 基礎教理 by Reformed Theologians

2022年09月07日 | 基礎教理

John MacArthur: Who Is Jesus?

訳出時間枠:最初から5分52秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。

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今回からR.C. Sproul師以外の改革派神学者のメッセージを拝聴しようと思う。

R.C. Sproul師に続いて、John MacArthur師のメッセージ。かなり辛口だが、的を突いている。

自分勝手に解釈したイエスキリスト像(私的解釈)や統合性に欠けたまだら状のイエスキリスト像(リベラル神学)から離れて、先人たちの努力によって積み上げられた、より客観的でより正確なイエスキリスト像を自分の中に構築したい。

これが出発点。


◇◇

「イエスとは一体何者か」という課題について話しをするように言われました。

これは大変基本的な問題です。

皆さんは全員このことを知っておられると思います。

少数の人たちがその質問に答えようともがくことは問題ではありませんが、非常にたくさんの人たちがそれに答えようともがいている事実が問題なのです。

サイエントロジー (自己修養を通して能力開発を行なう新興宗教運動)と呼ばれるニセ宗教に関する本を最近読んだことがあるのではないでしょうか。

サイエントロジー について知ってますか。

裏口を通ってサイエントロジーに入ったはずです。

裏口には「トム クルーズ」と刻印されています。

サイエントロジーとは、悪魔に吹き込まれたニセ宗教であり、 サイエンスフィクション作家とエル・ロン・ハバード(L. Ron Hubbard)という人物の機関が結託した結果生み出された宗教であります。

エル・ロン・ハバードは、「イエスとは一体何者か」という疑問に答えたいのです。

「イエスは一個人としては存在しなかったが、紀元前600年に、宇宙の真のパワーによって、受肉されたある人の心の中に移植された電気工学的なオツムの産物である。この移植体はR-6とラベルされ、受肉によって生まれたこの人物は、狂った男のようなものを見ている時に発生した」と、彼は言っています(引用)。

イエスは、電子工学的で、神秘的、かつ生物学的移植体にすぎない」とハバードは言っています。

そして、この移植体は小児性愛病者の特徴をすべて持っている。

正直申し上げて、これほど奇妙なものを想像することや、これほど冒涜的なことばを想像することは不可能であります。

本当に驚きでが、もしも本当のキリストを拒絶するなら、自分に都合のよいキリストをでっち上げることはできるでしょう。

そして、最終的には同じようなところへと至ることになるでしょう。

イエスキリストに関する真理を失うことの効果は同じであります。

有害な主張を選ぶことはできる、自分に都合のよい宗教を選ぶことは可能です。

しかしながら、本当のキリストを信じること以外はすべて糞づまりの不信仰です。

イエスキリストの正しい理解は、福音と救いに関して基本中の基本であります。

「もしも別のキリストを宣べ伝えるなら、その者は呪われるであろう。」

正しい答えのみが救いへの道しるべとなるのです。

正しい答えにかなり近いが、しかし外せば結果は永遠に悲惨です。

私たちの主イエスの生涯における不滅の時を見ることによって、この疑問に相対していこうと思います。

ルカ福音書20章を開いて下さい。

今日はたくさんのことをすでに聞いています。

多くの点で、あなたがたの心は負荷過剰気味です。

イエスの生涯の最中へとあなたがたを連れていき、自分自身を見い出す場面を利用してあなたがたにプレッシャーを与え、後半ではあなたがたの興味を掴もうと思います。

ルカ伝20章41節。

お読みしますのでついて来て下さい。

イエスは弟子たちに言った、「何故彼らはキリストはダビデの子だと言っているのか。詩篇の中でダビデは言っている。主は私の主に言った。あなたの敵をあなたの足台とするまで私の右に座っていなさい。ダビデはキリストを主と呼んでいる。それで、何故キリストがダビデの子なのか。人々がみな聞いている中で、イエスは弟子たちに言った。律法学者に気を付けよ。彼らは長いローブを着て歩き回り、市場でのいんぎんな挨拶を好み、会堂にある上座や食事の席での上席を好む。彼らはやもめの家を食いつぶし、うわべのために長い祈りを捧げる。このような人たちはより大きな裁きを受け取るだろう。イエスは見上げて、金持ちが献金箱に進物を入れるのを見た。そして、ある貧乏なやもめが小さな銅貨をふたつ入れるのを見た。そして、イエスは言った、「まことに、あなたがたに言う、この貧しいやもめは彼ら全員よりも多くのものを投げ入れた。というのも、彼らはみな余る中から献金したのだが、あのやもめは不足する中から生活に必要なものすべてを投げ入れた。」美しい石や奉納された進物で装飾された神殿について話している人々がいる一方で、イエスは言われた、「あなたがたが見ているこれらの石に関してであるが、崩されないで残っている石がないであろう日が来る。」

◇◇

賛美:

Paradise Valley

 

 

 

 


#156 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月06日 | 終末預言 

The Eye of the Needle (Mark 10:23–31)
https://www.youtube.com/watch?v=jdaxrEA7ZpA&t=1s

訳出時間枠:25分23秒から

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

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自営業から離れた後も、何かまだ残していないものあるのではないかとイエスに叱られていると思い、ペテロは激しく反論しました。

「あなたに従うために、私たちはすべてを捨ててきました。」

イエスは言います、「確かに、私は言いました。私のために、福音のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てて、その幾倍を得ない者はいない。」

このことについて、コメントをしておきます。

今朝、この部屋にいる人たちを、あなたがたは知っています。

あなたのまさに隣にいる人を知っているはずです。

この人たちは今そのことを実行した人たち、つまり自分の家庭を捨て、自分の家を捨てた人たちです。

愛する人たちと離婚したかったからそうしたのではなくて、キリスト故に、福音のためにそうしたのです。

神学の領域において、福音に関して激烈な論争が湧き上がった数年前のある日の夜、コーラルリッジ長老派教会の駐車場を歩いていたことを思い出しました。

論争の只中、私にとって極めて重要な知人を複数失いました。

頼りにしていた友人たちで、彼ら全員を失ったのです。

そのことで、私は大変落ち込みました。

その駐車場を横切ろうとしていた時、あることばが思い浮かびました。

「万力のやぐらが我らの神(神は我がやぐら)」

「物品も親族も手放せ」

「この死ぬべき命もまた」

「物品も親族も手放せ。この死ぬべき命もまた」

すきに手を置き、後ろを振り返りながら、イエスに従う人は神の国にふさわしくない。

振り返ってはならない。

イエスのために、福音のために、ただひたすら彼を見る。

そうするように召し出されたならば、この世におけるすべての事々を捨てる。

イエスはペテロに言います、「私は確かに、十分な確信をもって言います。もしもそうするなら、百倍を受け取らない者はいません。さあ、今この時、家、兄弟、姉妹、母、子、土地を迫害の中で失う者は、来たるべき時代に永遠の命を得るだろう。」

イエスは言います、「私のためにこれらの物を捨てるのなら、私はそれを絶対に忘れない。」

あなたが捨てるものを、私は100倍にして戻そう。

迫害を受けるであろうが、神の国とそれに帰属するすべてのものを受けるであろう。

そして、驚くべきことが待ち構えている。

この世において最初にあった多くのものが、神の国で続いているのを見るであろう。 

あまり重要視されなかった卑しい人たち、最後にいた彼ら、私の兄弟の中の若干名は、先頭にいるであろう。

何故なら、あなたを先頭に置く何かは、あなたの功績ではなく、キリストに対する忠誠と貞節だからです。

お祈りしましょう。

父よ、御神よ。手に触ることができるものに囲まれている私たちが、目に見えないものに信頼を置くことは大変難しいことです。それこそ確かな価値であり、買うべき力であり、利用すべき物でありサービスであります。そして父よ、あなたが高価な真珠を置いたその隣りにあるもの、その価値は他の全てのものを覆い隠し、木や切り株、ほし草にしてしまいます。イエスという価値全体をお与え下さい。主の御名によってお願い致します。アーメン。

◇◇

悪魔の道具になり得るもの(もちろん、自分の体も)すべてを捨てよという教え。

聖霊による支えのみならず、猛烈な努力と忍耐、艱難に対する訓練が必要と思われるのだが、人にはできないとも書いてある。

どういうことか。

努力して狭い門から入りなさい(ルカ13:24)。

努力は必要、しかし完成させるのは神。

Sproul師は、「そういう時がある」と言っている。

狭き門の先に神の国がある。

 

 

 


#155 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月05日 | 終末預言 

The Eye of the Needle (Mark 10:23–31)
https://www.youtube.com/watch?v=jdaxrEA7ZpA&t=1s

訳出時間枠:21分58秒から25分23秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

しかしながら、エルサレムにそのような門があったのかどうかは、9世紀の段階で不明であります。

つまり、このストーリーが真実かどうかはあやふやです。

むしろ、イエスは、当時最もよく知られた大きな動物を取り上げ、開口部の最も小さなスロットと比較し、そして「らくだが針の穴を通るよりも、金持ちが神の国に入ることの方が難しい」と言ったのではないか。

間髪入れずに、イエスはそれは可能だと明言します。

しかし、相当に難しい。

その時点における主の警告に十分注意する必要があります。

何故なら、現在の私たちは、世界の歴史において最も繁栄する人々だからです。

今朝お集まりの方々の中で最も貧乏な人でさえ、200年前の王たちよりも生活のレベルは高いはずです。

神によって私たちはそれほど祝福されているので、障害やトラップがそこにはあり、針の穴によくよく注意する必要があります。

そして、自分の心がどこにあるのか、時々吟味する必要があります。

小切手帳を見せて下さい、そうすればあなたの心がどこにあるか教えてあげましょう。

これは皆さん全員に当てはまります。

私たちは主の声を聞く必要があります。

弟子たちはイエスの話しを聞いてびっくり仰天しました。

彼らは言いました、「それでは一体誰が救われるのでしょうか。」

すると、イエスは、「人では、それはできません」と言った。

富を信頼する者が神の国に入ることが如何に難しいことか分かるでしょう。

人間的に言えば、そのような人が神の国に入ることは不可能であるということ。

イエスは言います、「しかし、神には、すべてが可能です。」

使徒パウロが言うように、へりくだることも大金持ちになることも可能です。

私たちの心を神の国に集中させつつ、神の祝福を受け、かつ大きな富の祝福を得ることも可能なのです。

難しいかもしれないが。

心は人の命の中で聖霊が介入する場所であります。

そして、聖霊が私たちの心の頑なさを切り通す場所でもあります。

2週間前に、ある人がこう言いました。

「自分の富を諦めることは極めて難しい。」

これを聞いて、「確かに、それは正しい。私にも難しい」と思った。

私たち全員にとっても難しいことです。

しかし、神の国のためにそうしなければならない時があるのです。

ペテロがイエスに言いました、「ご覧ください、あなたは私たちのことを言っているのではないですね。主よ、特に、私のことではないですね。あなたに従うために、私たちはすべてを捨ててきました。」

 

 

 


#154 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月04日 | 終末預言 

The Eye of the Needle (Mark 10:23–31)
https://www.youtube.com/watch?v=jdaxrEA7ZpA&t=1s

訳出時間枠:18分19秒から21分58秒まで

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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

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どのようにサタンが、ヨブに対して、彼の家族に対して、彼の家畜に対して、彼にとって貴重であり愛しい事々すべてに対して、地獄の恐怖を解き放ったのか話の続きについては皆さんご存じのはずです。

地獄の恐怖を経験した後、「神が私を殺そうとも、私は神を信じる」と叫びながら、糞の山の上で嘆きました。

ヨブは自分の富に頼ることはなかった。

神が自分の真実を証してくれる日まで、自分の救い主を信頼した。

次いで、新約聖書に登場するアリマタヤのヨセフについて。

曖昧な人物であり、福音書の中でも彼に関する記載は1か所しかありません。

彼が統合した莫大な事業展開ゆえに、アリマタヤのヨセフについて知っている人もいるのではないでしょうか。

しかし、今や、自分の富を用いて行なったことや、主イエス・キリストの体が威厳あるままに埋葬されるために大変高価な墓を寄贈したことにより、彼はキリスト教の領域では広く知られるようになりました。

つまり、ヨセフが覚えられている理由は、彼が所持していた富ではなく、彼が主イエスキリストに与えたことによってであったのです。

これが事の真相であります。

あなたの信頼があるところに、あなたの心があり、あなたの優先するものがあるのです。

事の重要性を説明するに当たり、イエスは奇妙な警句を使っています。

「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通ることの方が容易だ」と、イエスは言うのであります。

もしもこれが真実であれば、もしもこれが唯一の方法であるならば、天を手に入れるために、あなたも私も持っている富をすべて捨て去らなければならないでしょう。

9世紀頃、ひとつの伝説が生まれた。

イエスが言っていたのは、城壁に囲まれたエルサレムへと入る入場地点、つまり知られない門のことだという伝説。

エルサレムは内部へと入るための門がいくつかあり、それぞれの門には名前がありました。

東門、西門、糞門(Dung Gate)など。

それらの門はこのような様々な名前があり、 エルサレムにある最も小さな門を針の穴と呼んだと9世紀のとある作家は主張しました。

らくだがその門を通ってエルサレムに入るための唯一の方法は膝を折る方法であり、らくだの使い手はらくだを中に入れるために、その門の正面でらくだの膝を曲げさせ、押し、さらに押し込むのです。

こうやってらくだを中に入れることができたのです、但し辛うじてではありますが。

このことが偉大なストーリーのために利用されました。

つまり、金持ちが天の国に入るこのができる唯一の方法はひざまずくこと、というストーリーであります。

 

 

 


#153 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月02日 | 終末預言 

The Eye of the Needle (Mark 10:23–31)
https://www.youtube.com/watch?v=jdaxrEA7ZpA&t=1s

訳出時間枠:14分51秒から18分19秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

◇◇

創世記13章に、ロトの牧場主とアブラハムの牧場主との間の争議について書かれています。

その話し合いは非常に深刻であり、アブラハムはロトに次のように言います。

「私たちは家族です。お互いに仲良くやっていかなければなりません。私たちのために、この地にはぼう大な土地があります。お互いに内輪もめはやめましょう。やるべきことをお話しします。この土地を半分に分割しましょう。あなたが半分、そして私が半分持ちます。」

そして、アブラハムはさらに言います、「最初にあなたが選んで下さい。あなたの家畜のために、あなたの家族のために半分を選んで下さい。私は残りの半分をもらいます。」

ロトは一方を見やった。

カナンがほぼ砂漠の状態であることを見た。

家畜のえさを得ることができない場所であることを見てとった。

家畜の群れを連れて、市場へと狩り立てるにはあまりにも遠くて困難を極めることを見た。

一方、ヨルダン平原に目をやると、豊富な牧草地帯が見えた。

しかも、すべての商業活動が行われている町に接している。

事業主だったロトは、「私はヨルダン平原とそこの町を取ります」と言った。

そして、ロトは家族を連れて、ソドムへと移住した。

ロトが見て取ったように、ソドムは家畜を育てるには素晴らしい所だったが、家族を養うにはひどい所だった。

一方、アブラハムの方だが、彼は大変裕福だったので、家畜よりもはるかに、家族、自身の信仰、そして、やはり自身の潔白さに重きを置いていた。

ヨブのことを考えてみましょう。

古代の規準からすると、彼はとてつもなく裕福であった。

サタンが天の神の前に現れて、神を非難しつつ、「地上のこの場所にいる者たちはすべて私の手中にあり、彼らはみな私の言うことを聞く」と言った。

神はサタンに言った、「お前は私のしもべヨブのことを考えたことがあるか。」

彼の潔白さ、神に対する献身、、主に対する愛、そして忠実な奉仕ゆえに、神はヨブに関心を寄せていた。

そこで、サタンは神に対して挑戦状を叩きつけた。

「ヨブはあなたに無駄に仕えているのではないでしょうか。あなたがヨブに与えてきたものをご覧なさい。だから、彼はあなたを愛しているのです。もちろん、彼はあなたを愛しています。あなたが彼にこのような所有物をすべて与えたからでしょう。そして、彼を世界で最も富む者としました。あなたは彼の周りに防護壁をお作りになりました。私を彼のもとへ行かせてください。どれほど長くあなたに忠実であり続けることができるか見ようではありませんか。」