訳出時間枠:26分41秒から30分04秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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彼と不妊の妻エリザベツの間に、神は子(メシアの先駆者となる)を与えるおつもりだったので、メシアが来るであろうと知った時、ゼカリアは聖霊に満たされた(ルカ1:67)。
彼は預言した、「イスラエルの神、主を賛美せよ。神は私たちのところへ来て下さった。主の民のため贖いを成し遂げて下さった。神のしもべ、ダビデの家に住まう私たちのために、神は救いの角を立ち上げて下さった。」
メシアがダビデの息子であることは皆知っていた。
イエスはダビデの子ではないと神殿記録が示していれば、イエスの神性やメシア性に対する攻撃はさほど辛辣ではなかったのかもしれない。
しかし、パリサイ派も律法学者もそれを調べ上げていることは明白である。
さて、メシアは神殿が破壊される前に来なければならなかった。
何故から、神殿が破壊された後の記録はすべて消失してしまったからだ。
彼らの答えは的中した。
イエスはダビデの子だった。
彼らの答えは真実だった。
ただし、それだけでは不十分で、答えの残りに関して、42節において主は手短な説明をしています。
41節、「キリストはダビデの子だと彼らが言っているのはどうしてですか。」
「詩篇の中で、ダビデは次のように言っている。主は私の主に言った、私があなたの敵をあなたの足台にするまで、私の右の座に座っていなさい。ダビデが彼を主と呼んでいるのに、どうして彼がダビデの子なのか。」
これは驚くほど素晴らしいことばであります。
自画自賛ではない。
中東の父親は、自分の息子を「主」と呼ぶ習慣はあったようです。
ダビデが自分の子を「主」と呼んでいるのは何故でしょうか。
詩篇110編にあるアドナイ(YHWH)とは誰か。
ダビデはメシアを「主であり神」と呼んでいる。
主は私の主に言った、「私があなたの敵を足台にするまで、私の右の座に座っていなさい。」
このことばは詩篇2編に似た内容です。
メシアが来て、支配し、すべての敵が足の下に置かれることを告げるメシアに関する詩篇。
この種の描写は、王家がすべての民の上に引き上げられ、すべての民が支配者の足の下へ置かれた古代王朝に由来します。
44節、イエスはひとつの質問をする、「ダビデが彼を主と呼んでいながら、何故彼がダビデの子なのか。」
ダビデは間違いを犯したとするユダヤ人注釈者がいます。
おっとっと、ダビデはそんなことは言わなかった。
マタイ22章43節に、「彼は霊において語った」と書いています。
そのため、「彼自身の人の霊において」ではないかと考える批判家がいます。
そこで、マルコ12章36節、「彼は聖霊によって語った。」