訳出時間枠:49分37秒から53分15秒まで
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聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
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イエスは振り返って、神殿を見た。
それは、エルサレムの午後遅く、金色に光り輝いていた。
そして、イエスはこのように言います、「あなたがたが今見ているこれらのものであるが、崩れ落ちずに残される石がひとつもない日が来るだろう。」
人々を虐待してきた背教の宗教体系がここにある。
恵み深く憐れみ深い神、救いの神がするように望んできたことと真逆がこの宗教体系だった。
40年後、エルサレムと神殿は打ち叩かれた。
すべての家系図は破壊された。
その犠牲的体系は終止符を打った。
裁きは本当だった。
最後の招待は、最後の有罪判決となった。
第3のポイントについて話す時間があるので、ルカ22章37節を見てみましょう。
これは良くない最後でしょうか。
イエスにとって悪夢でしょうか。
いまや群衆は激怒している。
イエスの最後のことばは何だったでしょうか。
全群衆を前にして、指導者たちに対してマタイ23章全体に渡るスピーチをしました。
イエスは彼らを信用していませんでした。
裁きでもって彼らを一掃した。
彼らの怒りは制御不能となった。
群衆はイエスを捕えようとする。
彼らには手助けするインサイダーがいた。
彼らにはイエスがオリーブ山の何処にいるのか知っているユダがいた。
ユダはそこで群衆に直接指示を出している。
そして、彼らはイエスを十字架に付けようとする。
道徳や宗教について立派な考えを持っている人にとって、これは良くない最後だろうか。
いや、違う。
ルカ22章37節。
木曜日の夜。
彼らは上の部屋にいる。
集まって、最後の公式の法的過ぎ越しを祝う。
最初の主の晩餐。
イエスは弟子たちに警告する、「あなたがたにとって今後容易ではないことが起こるであろう。」
迫害や憎しみ、ヨハネ伝15章16章に書いてあることすべてをイエスは彼らに告げる。
しかし、こう告げる、「問題ない。」
37節、「書かれているこのことは、私において成就しなければならない。彼は罪人に数えられた。というのも、私に関することは必ず成就する。」
これを「最後の実現」と呼ぶことにします。
最後の招待は拒絶された。
最後の有罪判決が宣言された。
しかし、イエスを拒絶した国民に招来する有罪判決においてさえ、救いの目的の最後の実現を神は成し遂げたのです。
その時初めて、自分がイザヤ53章において預言されている人物であることを宣言する。
彼はイザヤ53章12節を引用する。
イザヤ53章12節のみを引き出すのではなく、イザヤ53章全体を大きく繰り広げる。
イエスは53章のドアを開ける。
2回、イエスは言います、「書かれていることは、私において成就しなければならない(節の始め)。」
「私に関することは必ず成就する(節の終わり)。」