みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#158 終末預言 by R.C. Sproul

2022年09月26日 | 終末預言 

The Triumphal Entry (Mark 11:1–11)

訳出時間枠:6分15秒から10分58秒まで

◇◇

聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、マルコ福音書から改革派神学基礎教理を学ぶ。

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しかし、このように批判する人たちが見逃していることがある。

イエスは現在の高速道路に沿って旅をしたわけではない。

ローマ道路に沿って旅行したのです。

マルコが述べているように、ローマ道路が通っていたということが分かっています。

これは的を得ていない議論の好きな人のための余談であります。

いずれにせよ、彼らはオリーブ山までやって来てイエスは弟子のうちのふたりを送り出した。

彼らに次のように言った、「向こう側にある村に入りなさい。村に入るとすぐに、誰も乗ったことのない子ろばがいる。なわを解いて連れてきなさい。」

この時点でイエスが弟子たちに与える指示を聞くことができる。

「次の村へ行きなさい。」

この村とは、熟していないイチジクの家の近くにあるベテパゲのこと。

そして、イエスは言った、「その村へ入りなさい。そうすれば、まだ誰も乗ったことのない子ろばがつながれているのを見るだろう。ほどいて私のところへ連れてきなさい。」

これは奇妙に聞こえるかもしれない。

まるでイエスが自分のためにろばを盗んで来いと言っているように聞こえる。

しかし、そうではない。

イエスが続けてやっていることとは旧約聖書預言の成就なのです。

来たるべきメシアは、ろばに乗ってエルサレムに入城すると旧約聖書の預言が1回以上なされています。

他の福音書記者はパームサンデー(シュロの主日)に何が起こるのかをはるかに克明に記録しています。

シュロの主日に関しては、物事を大急ぎで処理しようとするマルコ福音書が最も短い記述となっています。

ゼカリア9章を例に取ると、こう書かれている。

「喜べ、エルサレムよ。あなたたちの王が頭を低くして、ろばに乗ってあなたがたのところへやってくる。」

来たるべき王の到来を待ち望んでいる人々の間で、この預言は良く知られていた。

古代の多くの王たちは大きなsteed、すなわち見事な馬に乗っていた。

アレキサンダー大王しかり、しかしユダヤ人の王はそうではなかった。

ユダヤ人の王はろばに乗ってやって来ようとしていた。

ゼカリア書に見られるこの預言は、旧約聖書の中でもかなり早期にその起源を有しています。

そのことについて少し触れておきたいと思います。

そこで、今朝私は若干flipperになろうと思います。

時に人々がこう言っているのを聞きます。

「先週あの説教者の話しを聞いたんだけど、彼はflipperだと思う。」

flipperとは、聖書のさまざまな章をパラパラめくり続けて、皆さんを混乱させる人のことを言います。

さて、創世記49章をちらっと見てみましょう。

ヤコブが自分の息子たちのために宣言した家長の祝福が書かれています。

彼の長子はルベンだったが、彼が犯した罪ゆえに、家長の祝福から除かれました。

同様に、シメオンとレビも拒否された。

次に、49章8節において、偉大な家長の祝福に話が及ぶと、ヤコブはこう言いました。

「ユダよ。あなたは兄弟たちが称える男。あなたの手は敵の首元に置かれている。あなたの父の子らはあなたの前でひれ伏すであろう。なぜなら、ユダは獅子の子だからだ。」

それから以降、来たるべきメシアはユダの獅子と呼ばれるようになった。

続けます。

「ユダは獅子の子。わが子よ、あなたは獲物によって成長してきた。獅子のように、彼は身をかがめる。彼を獅子として目覚めさせる者はいるだろうか。シロの時となるまで、セプターすなわち王位の印はユダから決して離れず、また法の制定人も彼の足元から離れることはない。民は彼に従うであろう。彼はろばをぶどうの木につなぎ、そのろばの子を極上のぶどうの木につなぐ。彼は自分の服をワインで洗い、自分の衣服をぶどうの血で洗った。」

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賛美:

The Church's One Foundation

 

 

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