訳出時間枠:53分15秒から57分05秒まで
◇◇
聖書テキストにおける正しい意味はただひとつしか存在しないということを念頭に置きながら、改革派神学基礎教理を学ぶ。
◇◇
1節の中で、イエスは2度言います、「私は~の成就である。私は~の成就である。そして、私は罪人に数えられた(イザヤ53章)。」
こうならなければならないのであります。
背教の宗教体系によって起きた最悪の事態が、神のご計画を成就させることになるのです。
「彼は邪悪な手によって殺された、しかし、基本的には限定的評議会と神の先見によって実行された。」
イエスは神の子羊。
イエスは神の子羊。
サタンはイエスを殺したくはなかった。
サタンはイエスを十字架に付けたくなかった。
サタンはイエスを殺したくはなかったが、神がそれを実行した。
何故。
何故なら、誰かが罪人に代わる必要があったから。
「彼は罪人に数えられた。」
心がよじれます。
それがイエスの人生と宣教のクライマックスだった。
イエスは言います、「私はイザヤ53章の成就である。私は成就である」と。
彼は一本の線を置きます、「罪人に数えられた(12節)」と。
この線とは、罪人の身代わりによる同一視について語るこの章のうちのたったの20分の1であります。
この章の中で20回も、そのことについて語られています。
しかし、そのことについては1度だけ。
このことが扉を開いてくれるのです。
「私はイザヤ53章の成就である。」
イザヤ53章は、「ラビたちの拷問部屋」と呼ばれてきた。
このイザヤ53章に進んでこの説教を終わろうと思います。
これは実に素晴らしいストーリーであります。
最後の第4部において、次のことを分析して欲しいと思う。
第1に52章12節、実際には14節。
苦難の代理人について話し始めます。
52章14節、「多くの人々はあなたにひどく驚いた。というのも、彼の外見は誰よりもひどく傷ついており、その姿も人の子らよりも傷ついていた。」
53章2節、「彼は堂々とした姿はなく、彼を見上げる威厳もなかった。私たちを魅了する外見もなかった。」
彼は傷跡の身代わり。
彼は傷跡の身代わり。
苦難のしもべイザヤがやってくる。
彼は傷跡だらけで、外見は傷んでいるであろう。
次に、預言者は語る、「彼は十分な代理である。」
4節、「確かに、私たちの悲痛を彼は背負い。私たちの悲哀を担った。しかし、彼は神によって打たれ、叩かれ、そして苦しんだのだと私たちは思った。私たちの背きの罪のために彼は打ち砕かれ、私たちの不正のために叩き潰された。私たちが幸福になるための懲らしめが彼に下り、彼の内傷によって私たちは癒された。私たちはみな邪悪な道へと入り込んでしまった。私たちはそれぞれ自分の道へと向かっていった。しかし、主は私たちすべての咎を彼に向けさせた。」
彼はそれに満足したか。
彼は私たちの罪を身に受けた。
彼は私たちの咎を身に受けた。
彼は私たちに幸福をもたらした。
私たちは癒された。
彼は十分な身代わりであります。
彼は従順な身代わり(7節)。