団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

雑草

2010年05月19日 | 日記・その他

  

我が家と体育館での雑草との戦いはあいも変わらず続いています。体育館で朝昼3時間づつ、家に帰って1時間なんてことも時々あります。
  どんなに注意して根こそぎ抜いたつもりになっても、明くる日に今日はもう殆ど無いだろうと思いながら抜きに行くと、そんなバカなと思い知らされるほどこれでもかと生えています。手が取れなくて、一週間も放って置いたりしたらもう大変です。ここまで伸びるかと思うほどに生えてきています。その生命力と子孫を残す執念には脱帽します。
  そんな雑草も名前を調べて覚えたら、それまでとは違った親しみを覚えながらの戦いになります。
  どうやらそんな感覚は誰も同じ様です。

  14日、読売新聞コラム「日だまりカフェ」 坪内稔典より
  「何か珍しいものでもありますか」と問われる。そうかと思うと、「お宅ら何かの調査員ですか」とけげんな顔をされることも。
  道端にしゃがみこんで動かない。しかも、図鑑を開いたり、ルーペをのぞいたりしている。どうみても変なオジサン、オバサンの集団である。
  この集団、「道端の草を訪(と)う会」の一行だ。俳句の仲間とこの会を始めてもう十年近くになるが、古い街道の道端、川沿いの道端などを訪ねてきた。要するに、道端に生えている草を観察し、その名前を覚える。
  たとえばバス停のそば。五月半ばだと、ヤエムグラ、カラスノエンドウ、スズメノエンドウ、コニシキソウ、エノキグサ、キュウリグサは葉をもむとほのかにキュウリ(胡瓜)の匂いがする。淡い紫の小さな花が素朴で可憐だ。
  草の名前を覚えるまで、道端の草は単に雑草だった。道端そのものが草の茂る平板な場所に過ぎなかった。ところが、草の名前を覚えた途端、道端は立体的になった。草の世界が生き生きと出現したのである。 

  行きさきはあの道端のねこじゃらし

  朝九時のすずめのえんどう下さいな

  道それて苺のつなぎをきゅっと抜く

  野茨の花をまたいで透き通る

  これらは私の作品。句のできばえはともかくとして、道端の草達は今やわが親友に近い。(俳人、仏教大教授)

  ヤエムグラ、カラスノエンドウ、コニシキソウなどは私も調べてその名を知りました。しかし、こういう優雅な気持ちで雑草と接することができたら良いのですが、こちらは戦いですから、そうは行きません。
  それでも名前を知りたいという思いはあるのですが、以前にも書きましたがネットで調べても、映像だけでは判別が付きにくくてどうしても分からないものが多いので最近は諦めています。
  こういう優雅な会でもあれば教えてもらいたいものです。

ちょっと似合わないか!