我が家は親鸞聖人の浄土真宗、所謂呑百姓の宗教といわれる一向宗ですが、子供の頃は祖父の毎日朝晩のお経を時には仏壇の前に座らされたものです。それでいつの間にか訳の分からないままに覚えて一緒に唱えたりしていた者です。文字通り門前の小僧、習わぬ教を読むの世界です。
今や、殆ど覚えていませんが、それでもお経を聞けば時々、聞いたようなところがあります。
そんな一向宗に白骨の教があるのですが、今まで、意味も分からずに聞いていました。ところが、
5月1日、読売新聞コラム「日めくり」より
あした ―― 「夕べ」の反対語
先週、「夕べ」には「夕方」と「昨夜」、二つの意味がある、と書いた。「夕べ」に対応する言葉が「朝(あした)」だ。唱歌「浜辺の歌」の「あした浜辺をさまよえば」は、夜が明けて明るくなったころの情景を歌っている。また、徒然草の「野分のあしたにこそおかしけれ」は昨夜に何か出来事があった翌朝をさす。現代語の明日(あした)は後者の意味から転じたものだ。
「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」は、朝に教えを受ければその夜死んでも悔いはないの意。「あしたに紅顔ありて夕べに白骨となる」と、無常を説く文句もある。
参考:ウィキペディア(Wikipedia)より白骨 (御文)
やっと分かりました。「あしたに紅顔ありて夕べに白骨となれり」の「あしたに」がどうしても意味が取れずにいたのですが、「朝」だったのですね。これならスッキリします。
それにしても、教養の無さに我ながらガッカリさせられます。ちょっと考えれば「朝」と思いつくはずですが、何の疑問も持たずにそのまま受け入れていたのですから何とも情けないものです。
やはり、戦後の古典を大事にしない教育に毒されているのかもしれません。尤も、自分で勉強していないのですから文句を言う立場にはなさそうです。
それでも教育は大事!