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団塊の世代のつぶやき

誇れる日本を取り戻そう

白骨の御文章

2010年05月08日 | 無知

  

我が家は親鸞聖人の浄土真宗、所謂呑百姓の宗教といわれる一向宗ですが、子供の頃は祖父の毎日朝晩のお経を時には仏壇の前に座らされたものです。それでいつの間にか訳の分からないままに覚えて一緒に唱えたりしていた者です。文字通り門前の小僧、習わぬ教を読むの世界です。
  今や、殆ど覚えていませんが、それでもお経を聞けば時々、聞いたようなところがあります。
  そんな一向宗に白骨の教があるのですが、今まで、意味も分からずに聞いていました。ところが、

  5月1日、読売新聞コラム「日めくり」より

  あした ―― 「夕べ」の反対語

  先週、「夕べ」には「夕方」と「昨夜」、二つの意味がある、と書いた。「夕べ」に対応する言葉が「朝(あした)」だ。唱歌「浜辺の歌」の「あした浜辺をさまよえば」は、夜が明けて明るくなったころの情景を歌っている。また、徒然草の「野分のあしたにこそおかしけれ」は昨夜に何か出来事があった翌朝をさす。現代語の明日(あした)は後者の意味から転じたものだ。
  「あしたに道を聞かば夕べに死すとも可なり」は、朝に教えを受ければその夜死んでも悔いはないの意。「あしたに紅顔ありて夕べに白骨となる」と、無常を説く文句もある。

参考:ウィキペディア(Wikipedia)より白骨 (御文)

  やっと分かりました。「あしたに紅顔ありて夕べに白骨となれり」の「あしたに」がどうしても意味が取れずにいたのですが、「朝」だったのですね。これならスッキリします。
  それにしても、教養の無さに我ながらガッカリさせられます。ちょっと考えれば「朝」と思いつくはずですが、何の疑問も持たずにそのまま受け入れていたのですから何とも情けないものです。
  やはり、戦後の古典を大事にしない教育に毒されているのかもしれません。尤も、自分で勉強していないのですから文句を言う立場にはなさそうです。

それでも教育は大事!


能面

2010年05月07日 | 無知

  5月3日にも書いたように子供の頃に木で戦艦大和の模型を作ることに夢中だったので、木彫にも興味があり、仏像や能面などの制作のテレビ番組などがあればよく見ていました。その中で、何時も疑問に思っていたのが、一つの能面で喜怒哀楽を現すということでした。
  それは、舞う人の技量で、そんな事が出来るのだろうとりかいしていました。ところが、どうやら面にも仕掛けがあったようです。
  坂出市のお医者さんが出版された本にそんなことが書かれていました。

  くすしのこころ ― 臨床医兼教育委員として ― 国重昭郎 より

  …略

 「増女」の面。これは、皆さんも良くご存知の般若の面、般若の面は女性の嫉妬の悲しみと怒りの極限を表現しているのであのような鬼のような表情をしているのですが、それとは違って、増女の面は、憂いを含み神性を感じさせ、天女や神女の役によく用いられるんですね。このように一見無表情に見える能面にも実は様々な表情が隠されているんですよ。それでね、またこれも能のというか、能面の奥深さなのですが、この増女の面をじっくり見てみてください。左右で目の感じがほんの少しだけ違うのにお気づきですか?
  …略

  そうなんです。右目が四苦を悔やみ、恨みや恐れを感じさせる切れ長できつい感じに、左目が優しく感じられるように作られています。能の舞台を想像してみてください。仕手は、舞台に向かって左手から出てくるでしょう。つまり、観客である私たちには、まず右目が見えることになる。初めには恨みを持った女も、終わりには優しい眼差しへと変わって舞台を終える。一つの面でも心情の変化を表現できるようになっているんです。…以下略 

 参考:能面ホームページ → 増女②(ぞうおんな)

  これは全く知りませんでした。能をやる人にとっては当たり前のことなのでしょうが、想像もしていませんでした。
  そういえば、人間の顔で左右が同じ人は殆どいないそうですが、それに通じる所でもあるのでしょうか。
  今度、能面を見るときにその辺りに注意してみたいものです。

それにしても、知らないことばかり!


フォークでご飯

2010年01月27日 | 無知

  

大学に入って直ぐの頃、初めて知り合った同級生と学生食堂でランチを食べることになりました。田舎から出てきた私はナイフとフォークを使うランチなんてしゃれたものを食べるのは初めてでした。
  その友人は戸惑う私を他所に都会育ちらしく手馴れた様子でナイフとフォークを使って食べ始めました。そして、驚いたことにアルミ容器(だったかどうかは良くは覚えていませんが)に盛られたご飯を器用にナイフでフォークの背中に乗せて食べたのです。
  そんな食べ方なんか始めて見たので、どうやって自分のご飯を食べたか覚えていません。これは大変なことになった、早くあの食べ方を覚えないと満足にご飯も食べられなくなるとそれから必死で練習したのを覚えています。
  幸い、その食べ方をマスターしたのは案外早かったような気がします。学生時代はそれを当然のように学生食堂でランチを食べたものです。

  しかし、就職して、気が付いたら今度はそんな食べ方は間違いだと言われるようになっていて、又しても回りの雰囲気に負けて右手にフォークを持ってスプーンで食べるようにすくって食べるようになりました。
  最近はそんなことを気にせず日本人は箸で食べれば良いとの説に従って箸で食べるようになりました。全く、自分というものが無くて恥ずかしい限りです。

  それにしても、お皿にご飯を盛ること自体がおかしいのじゃないでしょうか。ご飯は茶碗と箸で食べるのが一番美味しい。とは言いながらも養殖に茶碗は見たことが無いので無理なのかも。
  色んな食べ方をしてきたわけですが、私としては、皿に盛ったご飯はフォークの背中に乗せる食べ方が一番食べ易かったように思います。今更、それをやる勇気が無いのも情け無いところです。

  ネット巡回であれはイギリス式の食べ方だという説を見たので、早速サーチしてみました。
  皆さん悩んでいるようで、たくさんヒットしました。

  フォークの背にライスをのせて食べるの?

  ファミレスでの洋食 フォークの背にご飯をのせますか? : 生活・身近な話題 : 発言小町 : 大手小町 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

  イギリス式というのは本当のようですが、これも米を食べる習慣はないようなので、器用な日本人が編み出した方法なのじゃないでしょうか。
  ご飯は、やはり茶碗と箸で食べたいですね。こうなれば洋食に取り入れさせたいものです。

無理かな!


サザンカ

2009年12月01日 | 無知

  もともといい加減な性格の私は向日葵(ひまわり)、紫陽花(あじさい)なんて何度見ても直ぐに読みが出てこないで「え~と、これは太陽に向かう葵だからひまわりだったな」とか「しようかは確かアジサイだったな」なんて頭の中でひとしきりひねり回してからやっと思い出す始末です

  そんな言葉の一つに山茶花(さざんか)があります。どう考えたって「さざんか」とは読めないので頭から暗記しておくしかないのですが向日葵や紫陽花と同じでひとしきり頭で考えないと出てきません。
  ところが、この読みが意外な原因からできあがったのだそうです。

  毎日jpより

  余録:言い間違い

  ・・・略

  漢字表記「山茶花」は中国でツバキを意味する言葉に由来する。それがサザンカを意味すると勘違いした上、「さんざか」という読みがやがて発音しやすい「さざんか」に取って代わった次第だ。・・・以下略

  これは無いですね。これじゃ読みにくい訳です。しかしながら日本人も案外いい加減なところがあるんですね。こんなのが受け入れられて大手を振って通用するとは思ってもいませんでした。もっと隠された意味があると思っていた私は単なるアホだったということのようです。
  しかしながら、それも細かいことにはこだわらず意外と日本人も大様なところがあると考えれば面白いですね。。
  こんないい加減な言葉が意外ともっとあるのかもしれません。あんまり真剣に漢字の語源なんて考えてると疲れますね。

参りました!


はき違える

2009年10月24日 | 無知

  

麻生さんが総理の時あれだけ漢字の読み違いなどを揚げ足取りで騒いだり中川さんをしに追いやったとも言えるマスコミも民主党が政権を取るや少々の間違いや問題は意図的に見逃しているように思えるのは私だけでしょうか。そのこの国に及ぼす影響はどちらが大きいのかの視点はないようです。というより日本を駄目にしたい意図があるように思えてなりません。
  それにしても、読み間違いや思い込みに記憶違いなどの酷い私としてはあの麻生さんの間違いを責める気には到底なれませんでした。同病相哀れむというところでしょうか。
  そんな私の思い込み気質を思い知らされてくれる記事がありました。

  20日、読売新聞コラム「日めくり」より

  ●はき違える ―― 吐く? 掃く? 履く?

  「自由と放任をはき違えるな」などと使う時の「はき」を漢字で書くと?間違ったことを吐く「しゃべる」ので「吐き違える」、必要なものを間違えて掃いてしまうから「掃き違える」――どちらももっともらしいが、答えは「履き違える」。他人の靴を履いてしまったり、左右を反対に履いてしまったりするところから転じて、意味を取り違える、考え違いをするのを現すようになったものだ。
  「履き違える」だと、履物のイメージが強くなるせいか、仮名表記が好まれる傾向があるようだ。そのため、もとの書き方を思い出しにくくなっている。

  「吐き」は思い浮かびませんでしたが、何となく「掃き」だろうというイメージを持っていました。「履き」は思いつきもしませんでした。もし何処かで書く機会があればきっと間違っていたはずです。危ないところでした。
  それにしても日本語って難しくて又それだけに面白いところがありますね。こうしたことを全て知れば楽しいのでしょうが、とてもじゃないですがそれ程勉強する気力はありません。とは言いながらも、恥をかかない程度の教養も身につけたいものではあります。

今更、無理かな!


時速

2009年10月19日 | 無知

  

文科系で数字にからきし弱い私は、台風の風速毎秒何メートルと聞いてもどのくらいのスピードかのイメージがわかずにに何か良い方法はないのだろうかと思いながらも何の対策も考えずにいました。

  ところが15日の読売新聞の投稿欄「気流」に服部さん(66)というタイ・バンコクに在住の会社員の方が「台風の暴風表示秒速より時速で」との題で投稿されているのを見て成るほどと納得させられました。

  ・・・略

  報道機関などが警戒を呼びかけたが、外出して転倒したり、風に飛ばされた看板に当たったりする人がいたことが私の住むタイでも伝えられた。

  日本では風の強さは秒速で表示されているが、実感として分かりづらいのではないか。この際、秒速でなく、時速で表示してみてはどうだろうか。

  時速なら、高速道路を走る車の感覚や列車に乗った時の体験などから、多くの人が猛烈な風を想像できると思う。

  秒速50メートルは「時速180キロの暴風」になる。誰もが恐ろしさを肌で感じ、外出する人が少なくなるかもしれない。

  これは素晴らしいですね。私も時速ならイメージがわきます。秒速50メートルは強風とは思うが時速180キロと言われる程の恐怖感は感じません。

  これは今すぐにでも採用して欲しいですね。気象庁ではメートルでないと駄目なんて決まりでもあるのでしょうか。それともいたずらに恐怖心を煽らないようにとの変な気遣いがあるのでしょうか。そんなばかな決まりは直ぐにでも破って下さい。両方使うのが良いかもしれませんね。

 それとも、自己防衛で換算数字の一覧表でも貼り付けておきましょうか。

    秒速   →   時速

   1メートル →    3.6キロメートル

     5    →   18

    10    →   36

    15    →   54

    20    →   72

    25    →   90

    30    →  108

    35    →  126

    40    →  144

    45    →  162

  こうして見ると、瀬戸大橋や餘部鉄橋の25メートルでの通行禁止も納得の行く数字ですね。今までは30メートルなんて大したことない台風なんて高をくくっていましたが時速108キロメートルだとなると恐怖を感じます。

 この間18号台風で首都圏のJRが強風のために運行を停止して多くの人たちが影響を受けましたが、あれも時速で発表されていたらもっと冷静に受け止められたかもしれませんね。

  それにしても数字に弱いのは命にもかかわってきますね。やはりそろばんをやっておくべきでした。

後悔先に立たず!


駒形提灯

2009年07月22日 | 無知

  第3592回で幾ら調べても分からないと書いた「駒形提灯」ですが、あれから祇園祭の宵山の写真を見ていてふと思いつきました。「待てよ、駒形とは提灯の種類じゃなくて飾りつけの形が将棋の駒に似ているということじゃないのか」。
  そう考えれば、提灯の種類ばかり探していたので見つけることが出来なかった訳もわかります。駒は馬でなく将棋の駒と考えれば宵山の提灯の飾りつけの形とぴったりです。そう考えて、「駒形提灯」と書いている記事を改めて見てみると、つじつまも合うような気がします。
  まだ、語源を書いたものには行き当たりませんが、多分この考えで合っているのじゃないでしょうか。改めて、きちんとした説に行き当たるまではこれで納得しておくつもりです。

  さて、その捜索の中で新たな記事を見つけました。電球型蛍光灯からLEDに交換した鉾があるそうです。やはり私が考えるようなことは既に実行されているようです。

  eoニュースより

  祇園祭・月鉾照らすLED電球環境配慮、今年から200個導入(京都新聞社 , 7120926

 祇園祭の月鉾(京都市下京区四条通室町西入ル)は今年から、駒形提灯の電球を蛍光灯からLED電球へ変える。消費電力は10分の1になり、表面も熱くならないため、環境に優しく安全性も高まるとしている。

 昨年、32基の山鉾は一斉に、駒形提灯の電球を白熱灯から省エネ型の蛍光灯へ交換した。月鉾も82個を駒形提灯につけたが、下ろす際に10個が割れた。

 今年から使うLED電球はカバーがプラスチック製で、落としたとしても割れにくい。消費電力も2ワットで蛍光灯の10分の1。明るさはほとんど変わらず、色もほぼ同じという。

 鉾を照らす駒形提灯のほかに、町会所やちまきを売るテントの提灯用に200個導入した。13日から点灯する。月鉾保存会の斎藤政宏理事長(62)は「環境に優しいエコな月鉾を目指したい」と話した。

  保存会さんはなかなか裕福なようですね。去年蛍光灯に換えたところなのに早くも今年LEDに換える予算があるのですから。去年換えたところなので暫くは無理なんじゃないかなと遠慮がちに書いていたのですが貧乏人の考えのようでした。
  我が家も電球型蛍光灯をLEDに換えたいと思うのですが先立つものが無いので諦めていただけに保存会の余裕に驚きました。

貧乏人はだめですね!


打切棒

2009年06月17日 | 無知

  

昨日に続いて棒の話題です。日頃当たり前のように何気なく使っている言葉の語源を知って驚かされることが良くあります。

  そんな驚きをしょっちゅう味あわせてくれる読売新聞コラム「日めくり」より

  ぶっきらぼう

  漢字で書けば「打切棒」。木の切れ端、あるいは、棒状のアメを打(ぶ)っ切りにしたのを指すとも言う。そのように切られた様子のそっけなさから、無愛想な態度、ものの言い方を表すようになった。
 打(ぶっ)は、「ぶち」が変化した接頭語。 「ぶっ壊す」「ぶっ飛ばす」など、意味を強め、激しい勢いでその動作をすることを表す。あまり品のいい表現ではない。「ぶっきらぼう」も、ほめた言葉とは言えないだろう。ただ、口ばかりたっしゃで、誰彼かまわず愛想をふりまくよりは、誠実さ、質朴さが感じられる場合もある。

 「ぶっ」が「打」からとは、これは想像もしていませんでした。単に強調する言葉くらいにしか思わず当たり前のように使っていました。
  特に、私の弱点と日頃から反省仕切り(と言いながら変える気はさらさらなかったりする)な「ぶっきらぼう」が同じ語源とは、世渡り下手な訳です。
  しかし、こうやって何気なく使っている言葉の持つ意味を知ると言葉遣いにもっと慎重になるべきと反省させられます。
  日頃から「ぶっきらぼう」な言葉遣いで一体どれだけの損を蒙ってきたかを考えると恐ろしいものがあります。しかし、今更反省したところで遅すぎるようです。

これも教養の無さの故か!


込む

2009年05月19日 | 無知

  510日日曜日(第3521回)で取り上げた「込む」に違和感を覚えた人はやはり沢山いたようです。15日の読売新聞コラム「日めくり」が取り上げていました。

  込む ―― 「混む」より伝統ある書き方

  高速道路が「込んでいた」の見出しに、「混んで」の間違いでは、との指摘が50件以上あった。前にも本欄で取り上げたが、「込」が本来の表記。人や物が場所いっぱいに入っている意だ。漱石も「夜の急行は込むから」と書いている。
 「混」はもともと溶け合って一体化することだから、少し意味がずれる。戦前の辞書には「込む」しかない。熟語「混雑」からの連想で「混む」と書くようになったのだろう。今では「込む」に違和感を抱く人が増え、新常用漢字表では「混む」も認める見込み。正式決定を待って、新聞の表記も検討したい。

  私はテレビニュースで気が付いたのですが、どうやら新聞記事にもこの「込む」があったようですね。同じように感じた人が多かったようで投書か何かがあったのでしょうね。
  それにしても、総理の言葉尻を捕らえるのが好きなだけあって自分たちはミスらないようにと気をつけているのでしょう。余りの気のつけように、世間の流れには付いていけないということなのでしょうか。それとも、「お前たち、こちらが本当だぞ」と教えてくれているのでしょうか。
  教養の無い身には有難いお教えですが、最近のように新しい若者言葉が多くなるとチェックも大変でしょうね。下手に間違っては総理の揚げ足も取りにくいでしょう。どんなチェック体制を取っているのか興味があります。

日本語って難しいですね!


こむ

2009年05月10日 | 無知

  およそ規制ラッシュなるものに縁のなかった私は毎年のゴールデンウィークのニュースを何時も休暇を一斉にしか取れない日本のサラリーマンの悲しさを思いながら見ています。
  今年もそんな渋滞の
TVニュースを見ているとテロップに、「込む」と書いているのに気が付きました。「あれっ、混雑の混むじゃないのかな」と思わずつっこんでしまいました。その時は、それ以上気にも留めなかったのですが、何と2度も目にしたのです。

  これはチョッと調べてみる必要があるとサーチして見ました。同じような疑問を持った人が多いようで直ぐにありました。

    混雑の「混む」は「込む」でもOK - 教えて!goo

  どうやら「込む」の方が本来の字で、「混む」が後になって使われるようになったもののようです。しかし、今では流通関係などでは「混む」の方が使われる方が多いようです。

  麻生総理の揚げ足ばかり取っているマスコミに突っ込みたかったところですが、無理だったようです。
  と言うことで、麻生総理が天皇皇后両陛下のご結婚50周年をお祝いする席で「弥栄」を「いやさかえ」と読んだと非難したことを思い出しました。

  これもサーチすると直ぐに出てきました。

  未来検索ガジェット通信より

  麻生首相の「いやさかえ」を“誤読”として“誤報”した報道機関メドレー

  私も、マスコミも大したことはないですね。余り、人の間違いを直ぐに非難しない方が良さそうです。結局は自分の恥をさらすことになりそうです。
  それにしても、この余り使わないと思われる「いやさか」なる言葉がボーイスカウトの世界で使われているとは全く知りませんでした。

  スカウト用語集|ボーイスカウト市川第6団(千葉県市川市)

  いやさかの歴史とは

  いやさか(弥栄)とは

  ボーイスカウトをやってた人達にとっては当たり前の言葉なのでしょうね。

全く、教養の無いのはつらいです!


誤字

2008年11月27日 | 無知

  一段落をどう読みますか。私は「ひとだんらく」と覚えてましたがどうやら「いちだんらく」と読むようです。

と言うのも23日、NHKテレビ夜7時のニュースで最後に不適切な表現がありましたとお詫びがあったのです。それが「一段落(いちだんらく)」を「ひとだんらく」と間違えたとのお詫びだったのです。

 散々、麻生総理の揚げ足を取っているだけに視聴者からクレームの電話でも入ってあわててお詫びしたのでしょうか。

  それにしても、ほんとうに「いちだんらく」の方が正しいのでしょうか。またしても右クリックの辞書で調べてみました。

 いち‐だんらく【一段落】

  [名](スル)

文章などの、一つの段落。

物事が一応かたづくこと。ひとくぎり。「事件もこれで―がついた」「仕事が―したらお茶にしよう」

2を「ひとだんらく」と読むのは誤りだが、話し言葉では使われることも多い。

 成るほど、話し言葉では使われるのですか。要するに読むのは誤りだが世間では使われていると言うことですね。何とも難しいことです。しかし、こんなことを区別しないといけないんでしょうか。そんな細かなことを指摘するくらいなら最近のおかしな言葉遣いを指摘した方が良いのじゃないでしょうか。

何かおかしい!


誤字

2008年11月22日 | 無知

  第474話第2632回で書きましたが生来のいい加減な性格が災いして、パルテノン → パノルテン」、「サブマリン → サブリマン」、「羞恥心 → さちしん」等と昔から、言葉を思い込みで覚えていて恥を掻くことの多い私としては、麻生総理の「踏襲をふしゅう」、「頻繁をはんざつ」、「未曾有をみそうゆう」なんて読み間違いなんてかわいいものだと思ってしまいます。

 そんな私が、16日、読売新聞の伊達公子さんの優勝の記事でご主人のクルムさんの言葉に何か違和感を感じてしまいました。。

 ・・・略

 2人は7年前に結婚。知り合った時、既に公子さんが引退していたため、ミハエルさんは現役のプレーをみていない。しかし、遊びでテニスをしても向きになる妻を見て、「本当の勝負をする姿を見たい。コートに戻らないか」と呼びかけた。・・・以下略

 この「向き」が気になりました。ムキになるとのイメージは私の頭ではこんな簡単な字じゃないような気がして調べてみました。

むき 1 【向き】

  (5)ちょっとしたことに本気になること。ささいなことにも本気で腹を立てること。

「さう―に人に反対する事が/虞美人草(漱石)」

――にな・る

(ちょっとしたことに)本気で腹を立てる。

予想に反して正解でした。やはりきちんと調べずにいい加減に覚えていると恥を掻きますね。しかし、「向き」が「向きになる」とはどうしてもしっくり来ないものがありますがこれも勝手なイメージを作り上げてしまった結果のようです。面倒くさがらずにちょっとでも引っかかった語句や漢字は直ぐに辞書を引くようにしたいものです。

 その点、最近のブラウザは右クリックで直ぐに辞書に飛んでくれるので重宝しています。とは言いながらも、それでも横着して読み飛ばしてしまう癖が抜けきらずに困ります。

                  気をつけたいものです!


かがし

2008年10月19日 | 無知

  中国のインゲンへの農薬混入がまたまた騒がせています。日本の企業も懲りないですね。今輸入を止めれば調達が出来なくてたちまち品不足になることはわかりますが、それにしてもあまりにも動きが悪いと言えそうです。

 早く国内で賄えるようにして欲しいものですが今更無理なのでしょうか。今まで、安ければ良いに流されてきた付けは大きそうです。

  しかし、もし国内ですべての量が賄えるようになるとしてもそれには農薬の力が必要なはずです。無農薬なんて騒がれていますが、実際に農業をする身になればとてもじゃないが無農薬なんてのは無理じゃないでしょうか。子どもの頃に5反百姓だった我が家の農作業を手伝わされた私としてはあんなしんどい仕事は2度としたくないという思いがあります。

 私が手伝っていた頃に比べると全てが機械化されて体は以前ほど大変ではなさそうですが、今度は、その機械代も償却できないのが現実のようです。その上に、農薬が使えないなんてことになると農業なんて成り立たないのじゃないでしょうか。

  と思っていたら、面白い記事がありました。

 15日読売新聞 コラム「日めくり」より

 かかし ―朝から晩までただ立ち通し

 「かがし」がもともとの言い方。臭気のするものを田畑に立てて、獣を追い払ったところから、「においを嗅がす」に由来する。語源が忘れられ、広く鳥獣害防止を目的とするものの総称になり、最も目に付きやすい人形の名になったというのが柳田国男の説だ。

 案山子は、中国で案山(低い山)の田に立てた鳥獣よけの人形を指した語を借りた表記。・・・以下略

 かかしが「かがし」とは全く知りませんでした。子どもの頃から「かかし」なんて脅かしだけで本当に役に立つのだろうかと疑っていましたが、もともとにはこんな用法があったんですね。

 と感心していたら、同じ日、同じ読売新聞コラム心のページ「心」に多田富雄の「落葉隻語」若き農民 考える農業と題して面白い記事がありました。宮城県石巻市で化学肥料や農薬に頼らない農業を推進している松本明さんの「松本農法」を紹介していました。

 ・・・略

 まず、安易に害虫駆除のため、農薬などを散布しない。害虫を寄せ付けない天然物を利用するのだ。ミントを畑の四隅に植えたり、その抽出物を噴霧すると、野菜にアブラムシや幼虫がつかなくなる。ルーという西洋ハーブを畑の周りに植えて、ダニや蛾、アブラムシ等の発生を防ぐ。蕨(わらび)の干したのは、倉庫に鼠を寄せ付けない。こうして野菜や生産者を、農薬曝露から守るのである。・・・以下略

 こうやって農薬を使わないやり方があるんですね。かかしもこうした臭いを付けて立てれば、新たな使い方になるかもしれませんね。

 それにしても、全く農薬を使わないとなるとその手間は大変そうです。出来るだけ少ない農薬との組み合わせでやっていく方法を考えた方がよさそうな気がします。

できるでしょうか!


ノと木

2008年08月10日 | 無知

  

この歳になるまで知らないことばかりですが、それでもこんなことさえ知らなかったのかと驚くことがあります。

  最近では、禾(ノギ偏)が「ノ」と「木」で出来ているのでノギと読むという説を新聞(出展は忘れました)で読み、「ええっ!そうだったのか、知らなかったなぁ」とノと木を分けて読むなんてことを全く思いつきもしなかった自分の想像力の無さに軽いショックを受けました。

 サーチしてみましたが、やり方が悪いのかそれらしいものは見つけることが出来ませんでした。似たようなものを一つ。

「ノ」の追求-その11

試しに共に象形とされる二組の字、「木」「禾」と「米」「釆」に当てはめてみますが、これに先だって辞書の各解字を調べておきます。

「木」 解字:象形。立ち木の形にかたどる。字形は枝と幹と中根とわき根を表わす。

「禾」 解字:象形。穀物の未の垂れ下がった形にかたどる。種が分散するところから分かれ意。

「米」 解字:象形。もみがらから出た黍(きび)の粒のさまにかたどる。籾殻を破ってでた粒の意味。

「釆」 解字:象形。掌の上に種を乗せた様にかたどる。手で種をまく意。

 

 「ノ」の「特別の」または「特別な」という意味の繋がりで説明できるでしょうか?

「禾」=「木」+「ノ」:木+特別な=>特別な木=>米のなる木=>いね

少し無理を感じるので、なじみの深い辞書の木の象形図をとり入れ「木」の最初の意味が「草木」だったと変更しましょう。

「禾」=「木」+「ノ」:草木+特別な=>特別な草木=>米のなる草木=>いね

「釆」=「米」+「ノ」:米+特別な=>特別な米=>脱穀した米(白米)=>籾殻をとること=>解き放つこと…以下略

 それにしても、ノと木でノギとは余りにも単純すぎて思いつかなかったのかそれとも私の頭が固すぎたのかどちらにしても自分の頭の悪さにがっかりします。

 漢字も結構いい加減に記憶しているのがあるので最近では簡単な字が書けないのは当たり前としても、読むことさえ出来なくなってきています。もしかしたら、ボケが始まっているのかも。

危ないですね!


セミ

2008年08月08日 | 無知

  第1769回でセミが何時の間にかミンミンゼミからクマゼミに変わってしまった事を書きました。今年も夜明けと供にシャーシャーと鳴き出していますが心なしか例年よりうるさくないような気がします。

と言うのも、このクマゼミは午前中しか鳴かないことを知ったからです。それで注意していると確かに午後は鳴きません。これを知ってから、「うるさいのも午前中だけの辛抱だ」と割り切ることができるようになったのです。尤も、今年は本当に数が少ないようです。もしかしたらセミの発生にも裏年なんてのもあるのかもしれません。それとも、セミも熱さにはよわいのでしょうか。

  ウィキペディア(Wikipedia) クマゼミ より

  …略

  鳴く時間帯はおもに日の出から正午までの午前中で、日が照って温度が上がる午前7時頃から午前10時頃まで最もさかんに鳴く。生息地では朝日が昇ってから昼近くまで、鳴き声が騒がしいほどに響きわたる。雨の日や午後はあまり鳴かず、センダンやキンモクセイなどの木の幹に止まって樹液を吸う。ただし、午後でも天候が回復した時などは鳴くことがある。またアブラゼミと共存している地域では、午前11時ごろまではクマゼミのみが鳴き、それから後はアブラゼミのみが鳴くという「鳴き分け」が見られる。…以下略

  しかし、午前中しか鳴かないなんて想像もしていませんでした。てっきり朝から晩まで鳴き通しだと頭から思っていました。人間って本当にいい加減ですね。と言うか私だけでしょうか。それにしても、ミンミンゼミは午後も鳴いていたような気がしますがどうなんでしょう。今となってはここではお目にかかることも無いので確かめようも無い。

これも思い込みでしょうね!