3年目


  3月11日に何か書こうかとも思ったけど、3月8日にNHK Eテレで放映された(3月15日再放送) 『ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から3年~』 を観たら、打ちのめされてしまって、薄っぺらい慰めの言葉を書く気になれなかった。

  もちろん、事故のせいでそれまでの暮らしを失っても、必死で立ち直ろう、立ち向かおうと努力している人々や、汚染の現状を地道に調査し続ける科学者たちの姿には、ひとすじの光を見る思いだったけれども、

  でも、実際には、故郷を追われた人々のこれまでの過程、現状と結末は、ほとんどが救いのないものだった。これが現実なのだ。思い知らされた。

  3年前(2011年5月)の放送で、ある養鶏場の経営者が紹介された。老いた男性だった。放射性物質の影響を恐れた業者に鶏の飼料を届けてもらえず、老人が養鶏場で飼っていた5万羽の鶏はすべて餓死した。餓死した鶏たちの白い死骸を前に、老人は呆然として立ち尽くしていた。

  その老人の今が伝えられた。3年前の放送では触れられなかったと思うが、彼は戦争中に大陸に出征し、終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに抑留された過去を持っていた。彼は抑留中に重病に罹り、危うく死ぬところだった。しかしなんとか一命をとりとめた。

  老人は日本に帰還した後、福島の浜通りに入植した。しかし、耕作用の開拓に適した平地はもう残っていなかった。老人は条件のわるい土地で苦労しながら、独学で養鶏を学んだ。そして、入植から数十年をかけて、試行錯誤しながら養鶏場の規模を大きくしていき、養鶏場の隣に立派な自宅も建てた。

  そこで起きたのが原発事故だった。老人が苦労に苦労を重ねて大きくした養鶏場の鶏は、みな死んだ。老人は養鶏場と家とを失なった。

  しかし、老人は歯の抜けた口を開けて笑って言った。「おれはあのとき(シベリアで病気に罹ったとき)死んだんだ。おれはあのとき死んだんだ、そう思えばなんともねえ。」 老人はくり返していた。「おれはあのとき死んだんだ、そう思えばこんなことはなんでもねえ。」

  老人は去年、いわき市に新しく家を建てることができた。失なった養鶏場の損害賠償金が下りたおかげだった。老人は新しい家で椅子にゆったり座り、安心した笑顔を浮かべた。「これでもう10年くらいは生きられるかな。」

  2か月前、取材を担当していた記者に連絡が入った。老人が癌で亡くなったという知らせだった。老人は病院で亡くなった。亡くなる前、老人は病床で、養鶏場の傍にあった家に帰りたい、と口にしていたという。

  番組を観ていて、この老人の結末にいちばん打ちのめされた。テレビ画面を見ながら、心の中でこう祈るしかなかった。「今まで、本当に大変でしたね。苦しいことばかりでしたね。でも、もう終わったんですよ。本当にお疲れさまでした。どうかゆっくり休んで下さい。」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« ジェニファー... またテニス観... »


 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。